令和4年7月の思い出_酸ヶ湯・八甲田・北八ヶ岳

もう明日は暦の上では立秋である。

連日の暑さでまったく元気が出なくて、とうとう7月は一日もブログを書く意欲が出ずに過ごしてしまった。

今年の夏は6月下旬にはやばやと梅雨が明けた。記録に残る限りこの100年間でもっとも早く梅雨が明けたあとには強烈な猛暑と梅雨の戻りでしっぺ返しのような豪雨が続き、我が家の定番の朝の散歩道に咲く紫陽花がいち早く枯れてしまった。

行動制限が緩和された7月にはいると、案の定、新型コロナウイルス感染第7波がはじまり、夏休みを控えてこの夏をどう過ごすか、思案に暮れる毎日を過ごした。

烈暑と大雨被害の日々を告げる連日のニュースに一喜一憂していると新型感染症はあらたな株に置き換わり、瞬く間に第6波を凌ぐ勢いで広がり、7月を過ぎて8月に入っても収まる気配がみられない。毎日全国で20万人以上の感染者が出る日が続いている。

広島の原爆の日を迎えた今日は、先週来の日本各地を襲う豪雨の被害がテレビのニュースを賑わせている。ウクライナにおけるロシアによる侵略戦争はまったく先が見えず、加えてあらたな感染症やこれまで経験したことのない温暖化が深刻化して、いったいこれから地球はどうなってしまうのかと心配しているうちにあれよあれよと7月が終わってしまった。今日、残暑見舞いの葉書を何枚か書いて投函した。

蒸し暑い夏の雨と晴れれば目もくらむような暑さを逃れて七月中旬、青森県酸ヶ湯三泊して八甲田登山に出かけた。空路で青森に飛び、初日は酸ヶ湯から八甲田大岳に登った。仙人岱から八甲田大岳に登り、毛無岱に下る定番のコースだった。前日までの雨が一時的にあがり頂上からの眺望を楽しむことができた。下山して酸ヶ湯にチェックインし、白濁の千人風呂で手足の伸ばしているとまた雨になった。この温泉も秋田の乳頭温泉黒湯と同様に身体の芯から疲れが取れる効能があり何度来ても気持ちの良い体験ができる。歩くとギシギシと音がする年季の入った階段を上り湯治部の鄙びた個室にのんびりと温泉三昧で三連泊した。湯治部は料金が安く、朝食は旅館部を同じバイキング形式だが、夕食は品数が減らしてあり高齢者にはちょうどよい量になっている。少し遠いのが難点だが、飛行機を使えば数時間でたどり着ける、定宿したい温泉宿だ。

八甲田大岳山頂

二日目は雨の中、雨具を着込んで奥入瀬渓流を散策した。水量が多く、濁流の流れは謳い文句の清流とはほど遠い勢いの激流になっていた。怒れる龍のようだといわれても仕方がないような流れだった。昼過ぎには酸ヶ湯に戻り近場を散策した。すぐ近くに東北大学の植物園や酸ヶ湯と同系列の八甲田ホテルがあり、せっかくなので瀟洒なホテルを覗きちょっと贅沢にバーラウンジで午後のコーヒーとスイーツと食べた。コーヒーがとてもうまかった。

奥入瀬渓流

奥入瀬渓流の増水
三日目、晴れてくれればまだ行ったことがない南八甲田の峰々を歩いてみかったが叶わず、八甲田山中にいつのまにか出来た城ヶ倉大橋を渡り、弘前に散歩に出かけた。酸ヶ湯温泉からわずか十数分走ると橋の手前からすっかり雨が上がり、津軽平野は晴れていた。酸ヶ湯から弘前まではわずかに40キロメートルあまり。1時間少しで弘前の中心街に着いた。かつて弘前に在住の頃、八甲田への道のりは遠く車で4時間以上かかってたどり着いた記憶がある。調べてみると城ヶ倉大橋は平成7年10月に開通したとあった。これといって予定がないので、かつての中心街下土手町通りの老舗和菓子屋である開運堂でお菓子を買い、はるか昔の記憶を頼りに以前の職場でお世話になった大学の同窓であるO先輩宅を予告もなしに訪問した。

O家で記念撮影

ご夫婦ともご健在でなによりだった。ご内儀に会うのはたぶん45年ぶりだ。当時はまだ新婚ほやほやで長子の妊娠中で悪阻に苦しんでいた時期だったと記憶している。

涼しい酸ヶ湯から帰って数日間は気分転換できて元気も戻ったけれど、その後また四六時中エアコンの中で暮らし、夜中に寝苦しくて目が覚める日が続いて、またげんなりしてしまった。

暑さに耐えかねて、7月29日北八ヶ岳に一泊で出かけ久し振りに北横ヒュッテに泊まってきた。登山というより避暑目的の山小屋訪問だった。

山小屋の主人、ケンさんは白髪まじりになってすっかり貫禄が付いて元気そうだった。コロナ禍で利用者が激減し、小屋の運営は厳しい状況だという。この日の泊まり客も我が夫婦二人だけだった。往時であれば賑やかな小屋もひっそりとしていた。初めてここにお世話になった時の先代主人はケンさんの父親で高齢で引退したが、その後交通事故の大怪我のあと脳出血を患い、認知症がすすんで施設暮らしだと聞いた。

翌日の朝は快晴だった。北横岳の頂上からは槍穂を抱く北アルプス、稜線の繋がる中央アルプスの峰々や御嶽山南八ヶ岳南アルプスの雄姿が一望できた。写真を撮っているとケンさんもカメラを下げて登ってこられた。

看板代わりの懐かしい天狗のモニュメントがある北横ヒュッテ

北横岳頂上の夜明け

北横岳北峰頂上

槍穂が鮮やかな北アルプスの峰々

南八ヶ岳南アルプスの雄姿

登りはロープウェイを利用してしまったので下りは下山道を歩いてくだった。すっかり晴れ上がった森やスキー場脇の山道を下るのは気持ちよかった。運動不足と年のせいでロープウェイ山麓駅に着いたときにはすっかり膝が笑う状態だった。

ロープウェイ山麓駅から北横岳方向を振り返る

ロープウェイ山頂駅に新設されていた展望デッキ

ロープウェイを仰ぎ見ながら下る

アサギマダラ

アザミに止まるヒョウモンチョウ

** 八甲田大岳登頂記録 **

7月14日 羽田発7:50(JAL青森空港着9:05(レンタカー) 酸ヶ湯登山口発10:55 仙人岱12:20 八甲田大岳頂上13:30 大岳鞍部避難小屋14:10 下毛無岱15:05 酸ヶ湯16:15

酸ヶ湯登山口

仙人岱手前の地獄湯の沢登山道

八甲田清水辰五郎

仙人岱

仙人岱ヒュッテ

八甲田大岳山頂

大岳鞍部避難小屋を望む

毛無岱から仰ぐ八甲田大岳(右)

北国の山の花は全体に小柄の印象だった。今年はコバイケイソウシャクナゲの当たり年のようだった。ウサギギクに出会えて感激した。






風景印と絵葉書描き

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風景印のことは最近知った。妻の友人から届いた葉書に見慣れぬスタンプが押されていることに気づいたからだ。散歩のついでに寄り道した郵便局や旅行で訪れた日本各地の地方の郵便局から郵便や絵葉書を出すときに押してもらうことできる、その郵便局独自の存在感を表した唯一無二の印だ。

風景印は正式には風景入通信日付印という。郵便局に配備されている消印で、局名と押印年月日欄と共に、局周辺の名所旧跡等にちなむ図柄が描かれている。円形が基本だけれど、特産品などをかたどった変形印もある。スタンプインクには鳶色と呼ばれる赤茶色が使われる。郵便局窓口で利用者から申し出があった場合に押印してもらうことができる。

ウィキペディアによれば、2018年1月1日時点で営業中の全国24050の郵便局のうち、11139郵便局に配置れている。北海道(882)や東京都(652)、愛知県(650)、神奈川県(450)、兵庫県(425)、静岡県(415)などで多い一方、佐賀県、宮崎県、山梨県香川県沖縄県など100局未満のところもある。都道府県内の総郵便局数に対する配備率で見ると、福井県(79%)や京都府・愛知県・静岡県(約70%)などでは配備率が高いが、大阪府や九州地方では20%以下のところもある。

押印には、消印の収集を目的とし郵便物を差し出さないで押印してもらう「記念押印」と、郵便物を差し出す際に押印してもらう「引受消印」の2種類がある。押印は風景印が配備されている郵便局の郵便窓口またはゆうゆう窓口で行われる。1通あたり切手または料額印面の合計を63円以上とした台紙・封筒郵便はがき等が必要である

風景印は葉書や郵便というアナログだが心温まる通信手段に、もらう楽しみと送る楽しみの両方が喜びを実感し、しかも費用の掛からないという今どき稀有なサービスだ。

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梅雨の雨空のした、暇に飽かして絵葉書を描いている。出す当てがない絵葉書は居間の片隅のプリンターのうえに置いているが、稚拙な自己満足をせっせと妻が消費してくれている。ごみにならず、在庫が溜まることはないことを妻に感謝しよう。

梅雨を迎えて、雨の中を散歩するほどの意欲がでないときには、絵葉書描きは暇つぶしには絶好だろう。

 

ジオパークについて

隠岐空港に着陸すると、「隠岐世界ジオパーク空港」の看板が真っ先に目に入った。ジオパークとはなんだろう。世界自然資産とは違うのだろうか。さっそくスマートフォンで調べてみた。

オパーク(Geopark)は、地球や大地を意味するGeoと公園を意味するParkを組み合わせてできた造語であることがわかった。地球の成り立ちを示す地質遺産や景観などを保護し、自然と人間との共生と持続可能な開発の実現を目指した事業の名前のようだ。

隠岐空港

隠岐西ノ島天上界観音岩

隠岐諸島西ノ島田賀浜通天橋

隠岐の海_ひとの顔に見える岩

隠岐の奇岩_あちこちに顔がある

隠岐の海

さらに、文部科学省のHPを見ると、ユネスコ世界ジオパーク」は、国際的に価値のある地質遺産を保護し、そうした地質遺産がもたらした自然環境や地域の文化への理解を深め、科学研究や教育、地域振興等に活用することにより、自然と人間との共生及び持続可能な開発を実現することを目的とした事業です。ユネスコの国際地質科学ジオパーク計画(IGGP)の一事業として実施されています。」と、まわりくどい説明が記載されていた。世界では44カ国・169の地域がユネスコ世界ジオパークに認定されている。日本では、隠岐諸島以外にも、北海道の洞爺湖有珠山アポイ岳新潟県糸魚川静岡県伊豆半島鳥取、兵庫、京都に跨がる山陰海岸高知県の室戸、長崎県島原半島熊本県阿蘇などの全部で九地域がユネスコ世界ジオパークである。(*ユネスコ国際連合教育科学文化機関、United Nations Educational, Scientific and Cultural Organization U.N.E.S.C.O.)

そう言えばアポイ岳に登ったときもジオパークの看板があったことを思い出す。今年の春、新型コロナウイルス感染症が下火になり始めた3月末に青春18切符山陰本線鈍行列車を乗り継いで旅した山陰の旅ではジオパークの文字や看板に気がつかなかった。

アポイ岳山頂(2020.8.17登頂)

一方、世界自然遺産は、「世界遺産とは1972年のユネスコ総会で採択された「世界遺産条約」により『顕著な普遍的価値』を有すると認められた文化や自然のことで、人類共通の財産として保護し、後世に伝えていくため世界遺産リストに登録されたもの」で、自然遺産に登録されるためには「自然美」「地形・地質」「生態系」「生物多様性」いずれかの基準を満たす必要がある。観賞上、学術上又は保存上顕著な普遍的価値を有する特徴ある自然地域、絶滅の恐れのある動植物の生息地などが登録される、と説明されている。日本では、白神山地屋久島、知床、小笠原の 4 地域が世界自然遺産に登録されており、すでにこの4カ所すべてを自分の足で訪ね歩いている。

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隠岐の固有種オキサンショウウオとオキノウサギ

世界ジオパークと世界自然資産はいずれもユネスコが認定した自然の資産で、前者は持続可能性に力点を置いた開発に着目し、後者は遺産として次世代に受け継ぐための保存を主眼とした地域を指すようだ。なかなか違いを理解するのは難しいが、ジオパークは観光資源として活用し、かつ保護する立場が強調さてれいる事業で、後ろ盾は文部科学省ではなく、経済産業省の産業総合研究所地質部門(旧地質調査所)のようだ。両者は似たような主旨だが、開発と保護のせめぎ合いのなかで持続可能性を目指す点では共通する事業なのだろう。

屋久宮之浦岳山頂直下

宮之浦岳山頂(2021.6.23登頂)

世界はもちろんのこと、まだまだ日本各地にも知らない地域や自然遺産・資産がたくさんある。また以前のように自由に気ままにあちこち旅が出来る日が来たら、映像や写真ではなく、ひとつでも多くの地に、自らの足を運び、現地の大気を吸い込み、水で喉を潤し、風の音を聞き、自分の眼で、宇宙の一部が形となった不思議な景色を眺めたいと思う。とは言うものの、寿命と健康には限りがある、・・・あとどのくらい時間があるのかは神のみぞ知るだけれど。


 

隠岐の島訪問記

モウモウドームでの牛の闘い

五月下旬になって、関東では少しはやい夏日を迎えた。汗まみれで仕事から帰ると、なぜか、沈む夕陽が蝋燭の炎のように見える観光写真で有名な隠岐の島ローソク島の写真を撮りに行きたくなった。もともと離島マニアである。およそ五十年に少し足らぬ以前、結婚してはじめての夏休みには小笠原諸島に渡ったことが我が家の数少ない自慢話であるほどだ(暑かった)。

意を決して、梅雨入り間近の六月になってすぐ、愛用のズームレンズに加えてずっしりと重い望遠レンズを背負い、大手旅行会社のツアーに潜り込んで、日本海に浮かぶ孤島・群島、隠岐諸島に旅行に行った。

初日、天気は絶好の撮影日和。美しい夕景が期待できる快晴だった。島内では爽やかな乾いたそよ風が吹いていた。このうえなく気持ちのよい午後が暮れてゆく。ところが、この風のせいで外海は波が高くなり、島北部のローソク島を洋上から見物する遊覧船が16時近くの出航直前になって、まさかの欠航とになってしまった。まったくの予想外の展開だった。ちょっと前に知床半島で観光船が沈没して大勢の死者や行方不明者が出たことも影響したのだろう。安全第一の策だろうが、最大のお目当てのローソク島の先端に夕陽が輝く奇跡の自然写真の撮影はあっけなくふいになってしまったのだ。写真撮影のことしか頭になかったので、配られたスケジュール表を予め見ておらず、その後は予備知識なしの島観光になった。

団体旅行なので予定されたスケジュール以外の自由行動の時間はなく、二泊三日の初日に計画されていた今回のツアーの最大目的は、上陸してわずか数時間であえなくおじゃんとなり、すっかり気落ちしてしまった。あとはもっぱら旅行社の計画にそった観光旅行だった。参加者17名のうち自分を含めた数名を除いて、あとは後期高齢者と思われる老人ばかり。まるで老健施設の慰安旅行のようだ。とは言うものの、あと数年で自分もその仲間入りなのだから、一期一会を大切にし、旅行ができる健康を心穏やかに喜ばなければならない。

隠岐諸島島根県に属し、大小180ほどの島々で構成される群島だ。有史以前、海水面が下がった氷河期には現在の島根県と陸続きで半島の様な構造の先端だったという。今も本州との間の海は浅く、せいぜい水深は80メートしかないという。

隠岐には大きな四つの島があり、島前(どうぜんと読む)には西ノ島、知夫里(ちぶり)島、中ノ島の三島と島後(どうごと読む)水道を挟んで隠岐の島(島後、隠岐の島町)が人の住む島だ。人口は二万人あまり。その他の小島は無人島だという。隠岐諸島は現在ではすでに死火山になっているが、いずれの島も太古の噴火で出来た火山の頂上が海面に突き出した島である。島前の三島は火口跡を内海してこれを取り囲むように位置し、もっとも大きな島後(隠岐の島)は大満寺山を最高峰(標高608メートル)とするほぼ円形の島である。この山は島根県伯耆富士(大山)からも見えるという。日本海の幸に加えて、肥沃な土地に恵まれ、里の幸も豊富な、暮らしやすいゆたかな島だそうだ。

この島が日本の歴史に登場するのは古く、日本最古の歴史書である古事記にすでに登場し、下って鎌倉時代から室町時代にかけては物語の表舞台にしばしば登場する。時の権力者である鎌倉幕府の転覆を企てた罪で後鳥羽上皇後醍醐天皇島流しにされ、後鳥羽上皇流刑地の島前の沖ノ島で生涯を終えている。以後、比較的身分の高い咎人の流刑の島としてしばしば歴史に記された。中世から近世にかけて瀬戸内海と蝦夷地を結ぶ北前船による海洋交易が盛んになると、風よけの島として日本海航路の要所となり、日本各地のさまざまな文化や慣習がこの小さな孤島にもたらされた。これらが根付いて独特の文化が育まれた。島内には大小150を越す神社がひしめき、さながら神々の集まる島の様相を呈している。今も古典相撲をはじめさまざまな独自の習慣と伝統をもつ島である。現役で活躍する大相撲の美形の関取、隠岐の海はこの島出身力士として有名だ。

以上の蘊蓄はほとんど現地在住の賑やかなバスガイドさんの受け売りである。さすがプロ、島のことはなんでも知っているのには感心した。

初日は羽田空港から大阪空港(伊丹)を経て空路隠岐の島空港へ飛び、予定のローソク島見物の遊覧船が中止になったのに旅行社は代替案を企画しておらず、水若酢(みずわかす)神社だけを参拝して、時間を繰り上げて早々とホテル(隠岐プラザホテル)に直行。せめてローソク島の眺められる展望台ぐらいには連れて行って欲しかった。夕食は白バイ貝と白いかの刺身等海鮮膳。

二日目は隠岐の島西郷港からフェリーに乗って西ノ島へ移動、バスでイカ寄せ海岸に面した由良比女(ゆらひめ)神社や国賀海岸観光を散策。昼食は別府港近くの焼き肉とお好み焼きの店(徳川)で松花堂風弁当と生牡蠣を食した。弁当は美味いとは言えなかったが生牡蠣は絶品だった。食後は腹ごなしに黒木御在所跡(後醍醐天皇行在所阯)を散策した。午後はこの日宿泊するホテルの遊覧船に乗り西ノ島国賀海岸を洋上から観光した。さらに船足を伸ばして外海のうねりの中を進み、知夫里島赤壁(せきへき)を船上から見物し、夕方、宿泊地に帰着。ホテル(シーサイドホテル鶴丸)に入る。夕食には大きな夏牡蠣(岩牡蠣)を再び賞味。

三日目は高速艇(ジェットフォイル)で島後(隠岐の島)の西郷港に戻り、バスで観光施設(モウモウドーム)で牛突きのデモンストレーション見物、すぐ近くの国分寺後醍醐天皇行在所阯)を観光し、またバスに乗り「中村のかぶら杉」(隠岐三名木のひとつ、本当は四名木あるそうだが)を見て、白島(しらしま)崎展望台に登る。その後、翌日がお祭りの玉若酢命(たまわかすみこと)神社(毎年6月5日が例祭、御霊会風流ごれいえふりゅう)を観光し、別府港に戻り港のお土産屋の二階(フィッシャーマンズワーフ)で海鮮丼で昼食(並)。14時50分隠岐空港発伊丹行飛行機で伊丹を経て、夕方、17時05分発羽田行きに乗り継ぎ、18時20分羽田空港着、19時半に帰宅。

水若酢神社

田賀海岸の放牧場

赤尾展望所から魔天崖と通天橋

田賀浜天上界の奇岩

田賀海岸

通天橋

牛突き

隠岐知夫里島赤壁

玉若酢命神社と八百杉(やおすぎ)

隠岐島国分寺後醍醐天皇行在所阯)

隠岐の島を一言で表現するなら大自然ジオパーク)と神々の島と言えるのだろう。

日本の神々は懐が深く、なかなかつかみ所がない。文化財の指定を受けている由緒ある神社をお参りしても、こころの中に崇高な神様の姿を想像することができないのは自分だけではないだろう。それでも多くの日本で育った人々は頭を下げて鳥居をくぐり、神殿の前に建つ拝殿で手を合わせ、賽銭箱に小銭を投げ入れて健康と繁栄を祈っている。それこそが伝統として受け継がれてきた日本固有の文化なのだろう。祈りの声が届いているのかどうかはあまり問題ではないのだ。天と地を結ぶあまたの神殿には八百万の神々がいつでも即座に降臨し、神様はとても身近にいる存在だからに違いない。島中が厳(おごそか)な神社で被われている隠岐の島訪問で感じたことはこのことが一番だった。

 

 

現在・過去・未来

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朝、目が覚めて雨が降っていなければ自宅の近所を散歩することを日課にしています。連日のロシアの侵略によって崩壊したウクライナの建物の映像で気持ちが塞ぎ気味となる毎日ですが、足かけ三年におよぶ新型コロナウイルス感染症もようやく収束の気配が見られるようになったことを喜びながら、ひと気のない朝にマスクを外し、ゆっくりと坂道を登ります。道端に咲く濃い紫の露草や植込みの色とりどりの紫陽花に出会い、爽やかな朝の風がここしばらく忘れていた小さな感動を運んでくれます。

保育園や幼稚園・学校もようやく落ち着きを取り戻しつつあるようですが、楽しみにしていた遠足や運動会、人生で一度だけの修学旅行などのこども達にとってかけがえのない行事が次々と中止され、オンラインによる二次元のモニターを見つめて暮らした二年間、こども達が感じたこと、学んだこと、さびしい思いや言葉にできないやるせなさが、彼らのこころにどんな陰を落としているのかが気になります。あってはならない悲惨な戦争がこころに深い闇を作っていないかと心配になります。

こども時代の経験は人生の大きな財産です。喜びやかなしみ、つらい思いや感動は人生を左右するほど大きな影響をこどものこころに残します。こどもは人と人とのふれあいのなかで成長し、遊び、笑い、競い合って、豊かで健全な毎日を過ごさなければなりません。見守る大人がしなければならないことは何か。彼らに希望と勇気を与えるには何が出来るのか。朝日の昇る丘の道を歩きながら、そんなことを考えている今日この頃です。

(とある会報に送った原稿がボツになったので転載しました。)

浅草三社祭

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三年ぶりに行われた浅草三社祭を見物に行った。

以前なら大勢の見物客で埋め尽くされる浅草神社前も今年は人出が少ない。おかげで近くで見物できた。

密を避けるため街中の渡御は台車に乗せての巡回なので、恒例の勇ましい背負い手の掛け声が聞こえず残念だった。

素直な感想として、観光地も都会もまだまだコロナ禍以前とは程遠い印象だ。

感染源から身を守ることは重要だが、引きこもってばかりでは心とカラダに良い訳がない。忍耐にも限度がある。新たな病原体の恐怖への対応と日々の健全で健康な暮らしに戻ることの利益相反を勘案して、どちらが重要なのか、相対的な評価と対応をできるだけ早く整理すべきだ。

十年後、二十年の未来に大きな影を起こすだろう、この事態が負の記憶にならないように考え方を整理しなければならないと思う。

連休は黒湯温泉で過ごす

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今年のゴールデンウイーク後半は秋田の乳頭温泉郷黒湯温泉で過ごした。

自宅からちょうど650kmを愛車に荷物と必需品の折りたたみ椅子を積み込み、休憩を含めて12時間の自動車旅行だ。

連休なのに予想外に道が空いていた。新型コロナウイルス感染による蔓延防止等緊急措置(まんぼう)が解除され高速道路はまさに長蛇の列になるだろう予想していたが、下り上りとも東北道はほぼガラガラと言ってもよいほどの交通量だった。

黒湯では自炊棟に泊まった。旅館部で食事付きに泊まることもできるけれど、食事の量が多すぎて食べきれず、連泊はきつい。食事は一汁一菜で十分なお年頃になってしまったので、連泊の温泉旅行では、自炊棟や湯治棟があればそちらに泊まることにしている。ちなみに黒湯に来たときには、きりたんぽ鍋を作って食べるのが定番だ。

まさに湯治で、調理以外は何をするでもなく残雪の残るブナの森を眺めながら、朝な夕なの白濁の露天風呂三昧で過ごした。

退屈しのぎに食材の山菜採りを兼ねてフキノトウ水芭蕉が開く近隣を散歩したり、車で近くの観光地にも足を伸ばした。

秋田駒ヶ岳山麓の桜はちょうど散り始めを迎え見頃の時期だった。見上げる秋田駒ヶ岳の頂はまだすっかり雪に被われていて軽装登山はできない。そういえば今年も高齢者の春山遭難のニュースが絶えない。きっと昔取った杵柄で大丈夫だと侮って登山に出かけ事故にあっているのではないだろうか。

車で小一時間の桜で有名な東北の小京都、角館武家屋敷周辺のソメイヨシノはもうすっかり散ってしまっていた。コロナ禍以前ほどではないのだろうが、汗ばむほどの晴天に恵まれて新緑の柳が五月の風に揺れる清々しい初夏の風情を多くの観光客が楽しんでいるように見えた。ここは稲庭うどんが名物だ。最近では比内鶏の親子丼も名物になっているようだ。両者賞味した。

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弘前ではもうすっかり桜は散ってしまっている「さくら祭り」を5月5日のこどもの日まで開催しているようなので、車を飛ばして行ってみた。弘前城公園の桜は若葉に被われ、遅くまで咲き残る枝垂れ桜もすでに終わってしまった園内ではあったけれど大勢の観光客の姿があった。例年ならば満開を迎え咲き誇るソメイヨシノを眺められるはずと、きっと早くから旅行を予約しておいたのに桜が早く咲きすぎてしまい残念がっていることだろう。弘前では公園近くに移築された洋館のカフェでアップルパイを食べた。市内のスーパーマーケットを覗くと青森の春の名物、クリガニを特売していたので温泉宿の夕食のおかずに買って帰った。

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今回は4泊5日のんびり湯治旅だったけれど、俗世を離れ、ブナの森を渡る風に吹かれ、温泉に浸かって一ヶ月ぐらい山の中で過ごせば、すっかり心の垢が落ちて、超然とした仙人のようになれるのかもしれないと思う。まだ少し残っている人生の使い方をこの際、考え直すのも悪くない気がしてくる。

「食う、寝る、遊ぶ」が人生後半の最優先の生きる目標にしようと思ってきたが、「食う、寝る、温泉」が究極かもしれないと考えるこの頃だ。