今日は敬老の日

今日は敬老の日

敬老の日で高齢者は何歳から敬われる年齢なのか気になる。六十五歳か七十歳か、あるいは七十五歳だろうか。言葉として意外だったのは「ゴールデンウィーク」も「シルバーウィーク」も、1950年代前半に映画会社「大映」が作ったという記事だった。宣伝用語と言うことだった。つまり、連休に映画を見よう!という、映画業界の活性化が目的だったという。チョコレート販売促進のためのバレンタインデイのようなものだったらしい。

ゴールデンウィークは大型連休の代名詞になったが、シルバーウィークという言葉はあまり定着しなかった。なぜなら、やはり大型連休になりにくい欠点があったからだ。

実は、ほんとうは九月の連休が5日以上になった場合のみ『シルバーウィーク』と称されるのだそうだ。この三連休に加え、さらに秋分の日が敬老の日と二日違いだった場合、祝日法によって、祝日と祝日の間の日は国民の休日となることから、最大五連休の大型連休が発生するようになったそうだ。蘊蓄である。

身辺雑記_「ちむどんどん」と山の小説

花より団子のたとえあり

昨日は中秋の満月だった。ススキを花器に生け、団子と月餅を飾ったおかげだろうか、綺麗な満月が眺められた。

11号につづいて台風12号先島諸島に近づいている。例年のことなので沖縄の人たちには年中行事の台風襲来なのかもしれないが、日に何度となくNHKのニュースの初っぱなに台風情報が流れると関東地方に棲む身にとっては自分のことではないにしても心配になってしまう。暴風に木々がなぎ倒され、屋根が飛ばされる家々もあるのだろう。白い珊瑚の島、竹富島の民家のように低い屋根と石垣の塀は伝統に基づいた台風対策なのだろうと納得してしまう。屋根上に鎮座するシーサーがなんとなく明るく微笑んでいる姿なのはきっと毎年の決まりごとのように繰り返される自然の脅威に怯えることなく、根気強く笑顔で災難をやり過ごそうという意味があるのかもしれない。この台風が行き過ぎたら、また沖縄諸島に行ってみようかと思う。

団子に月餅が`つき`もの

少しでも沖縄県民の気持ちに寄り添いたいと、今日は朝からずっと沖縄民謡を聴いている。今年は沖縄返還50周年の記念すべき年だ。NHKの朝の連続ドラマでは、これを機に沖縄を舞台した「ちむどんどん」(胸がどきどきするという意味らしい)が放映されている。面白いことに、このドラマに関する書き込みが連日、インターネットを賑わせている。やれ時代考証がでたらめだとか、ストーリーが行き当たりばったりだとか、いろいろと悪口を書かれているが、たくさんの視聴者の心の琴線に触れる内容なのだろう。それだけ人気があるということに違いない。自分は観ていないが、家人がファンで連日時間になると欠かさず観ている。

有形文化遺産チンドン屋」さん

昨日、珍しいモノを見た。音が似ているが、「ちむどんどん」ではなく、チンドンヤさんだ。コロナ禍が長引き閉店してしまった近所の旅行代理店の跡に不動産屋が新規開業し、その宣伝の興行だった。先頭を歩くかつらを付けた若武者姿、太鼓と鐘を叩く町娘、ピエロ風の装束のサックス奏者の三人組が狭い路地を練り歩く姿が懐かしい。チンドン屋とは言い得て当を得た命名だと思う。昔はチンドン屋の賑やかな音楽が聞こえてくるとこども達が歓声を上げて家から飛び出し、そのあとに長い行列を作って練り歩いたものだった。今では子どもが減ってしまって、三人だけの行列が少しもの寂しい光景に感じられた。すでに有形文化遺産だ。いつまでも残して欲しい地域密着の仕事だと思う。

今日九月十一日は、三十九才の若さで急逝した友人の命日でもある。あれから二十五年がたった。残されたこども達も立派な社会人として暮らしていることが、故人へのなによりのはなむけだろう。

ニューヨークの貿易センタービルに旅客機が激突した「アメリカ合衆国同時多発テロ」が起きたのも2001年の今日だった。すでに二十一年も経っているが、鮮烈な映像が目の奥に焼き付いている。戦争とテロは止むことなく世界のどこかで繰り返されている。人間はおろかであり、過去から学ぶことが苦手な、反省しない生き物だということだろう。

パオロ・コニェッティの山を舞台にした小説二作

初めてイタリアの小説家の著作を読んだ。パオロ・コニェッティ作、関口英子訳、新潮社刊、「フォンターネ.山小屋の生活」と同「帰れない山」だ。2冊とも山の暮らしを題材にした小説で、ヨーロッパアルプスの麓に位置する北イタリアが舞台になっている。自伝的な要素のつよい物語で、美しい山々を背景に都会で育った孤独を愛する主人公と山小屋で出会った人々、父親と母親、そして幼なじみとその家族が紡ぐ物語で、和訳がとても読みやすく記憶に残る秀逸の作品だった。忘れないようにここに記しておく。

 

 

なんのために食べるのか

生きるために食べるのか、食べるために生きるのか。難題である。

若い頃は生きるために食べていた。その日その日を乗り越えるためにエネルギー補給が必要だった。

最近は朝起きるとまず最初に今日の晩飯は何を食べようかと考えるようになった。若い頃とは明らかに違う。朝一番にそれを口に出すと、家人には貴方ってそんなに食べることに執着がありましたっけ、と言われる。

温暖化や乱獲で海の資源が激減している。かつては庶民の食卓には欠かせないおかずであった秋刀魚も烏賊も高級食材になってしまった。特に秋刀魚は昔であれば一匹百円でも買わなかった痩せて貧相な魚体のものでも今ではその五倍近い値段になってなかなか食べる機会を失ってしまった。

たまたま何を食べようかとレシピ本を探していたらシングルファーザーとしてひとり息子を育てている芥川賞作家の辻仁成の著作「父ちゃんの料理教室」(大和書房刊)を見つけた。面白そうなので図書館で借りてきて読んでみた。

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(地味な表紙の「父ちゃんの料理教室」)

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内容は料理にまつわるエッセイの体裁をとっているが、手塩にかけて育てたひとり息子の自立に対する父親からの「送る言葉」という内容だ。なんだかホロリと涙がこぼれそうになる本だった。

この本の最初に出てくるレシピを読んで、無性に烏賊のパスタが食べたくなり今夜はこれを作ることにした。

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(とっても美味でした)

 

九月の虹

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奇妙な動きをして太平洋から日本海に進路を変えた台風11号がもうじき熱帯低気圧になりそうだ。

今朝小雨の中、大きな虹が出た。

天気が不順でこのところ良く虹を見るが、早朝の居間の窓からこれまで虹を見た記憶がない。

日中はまだまだ暑い日差しが降り注ぐが、朝夕は連日涼しくなった。もう秋が来ている。その証拠に目と鼻にアレルギーが始まった。

先週の半ば青春18きっぷを購入し東海道線普通列車を乗り継いで念願の長良川の鵜飼見物に出かけた。

残念ながら雨で川が増水して鵜飼は中止となり、温泉にだけ浸かって意気消沈してまた東海道線で帰ってきた。

長良川の水量は上流の郡上に降った雨で決まるという。台風の影響で大雨になってしまったので下流の川もしっかり濁流の大河に変身していた。

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雨の中を岐阜駅から長良橋通りを真っ直ぐ進み、有名な柳ヶ瀬商店街を横目で見てとおりすぎ、一時間ほど歩いた。予約の宿は橋の近くの「鵜匠の宿 すぎ山」だった。長良川を挟んで、再建された岐阜城の建つ金華山の正面の宿だった。金華山はここを居城にした織田信長がそれまでの稲葉山を改名してつけた名前だそうだ。麓にある伊奈波神社が元の城主である斎藤道三が付けたその名を忍ばせている。玄関前の川辺には鵜飼に使われている細身の木造舟が係留してあった。舟底にはおりからの豪雨で水が溜まっていた。

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着くなり今日の鵜飼は中止と告げられそれ以外の予定を組んでいなかったので途方に暮れた。時間潰しにすぐ隣のうかいミュージアムの実演を覗きに行ってみた。

全国で九人しかいない宮内庁職員資格の鵜匠である杉山雅彦さんが解説と透明な水槽に泳ぐ鮎を鵜が捕る実演を見せてくれた。飲み込んだ魚を籠に吐き出させられる鵜も大変だろうが、操る鵜匠もなかなかの修行が必要なのだろう。代々一家の長男が世襲してこの職に着くという。あっと言う間に鮎を何匹も飲み込む鵜。短い実演だったが意外と面白かった。

毎年、長良川の鵜飼のは五月から十月中旬(5月11日から10月15日)まで行われていて、よほどの事がない限り実施されている観光行事だが、今年もこれまで三回のみしか中止になっていない中、運悪く四回目の中止に当たってしまったようだ。

翌日の朝は晴れだった。長良川の上流方向に二重の虹がかかった。二重の虹は幸運の印だという。でも深夜にも大量の雨が降って長良川の水位は高いままだった。これでは連泊の選択肢はない。帰り際、宿の従業員にはまたぜひ来てくださいと言われた。確かにまた来ないと本当の伝統行事は観れないと妙に納得してしまった。

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このまま電車に乗って帰るのも味気ないし、せっかくなのでロープウェイに乗って金華山の頂上にある岐阜城を外からだけ観光した。登山道も整備されていて近隣住民の格好の朝の散歩コースになっているようだ。頂上の博物館になっている城郭の前の休憩所には高齢者が地元の言葉で朝の挨拶を交わし賑やかだった。確かに登り下りがあって老若男女に関わらず、健康増進にはもってこいの散歩道だ。

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金華山の展望台からは晴れ渡る地平の果てに伊吹山を眺め、遥か彼方まで広がる濃尾平野を見ることができた。眼下の街並みに続き木曽川長良川に潤いを与えられて豊かな平野がどこまでも広がっている。この山の上から斎藤道三織田信長が天下統一の夢を抱いた気持ちがわかるような気がした。なかなか関東に住んでいると岐阜には馴染みがないけれど、中世の日本から近世への扉を力ずくでこじ開けた戦国武将の息吹と意気込みがこの地で育まれたことが納得できるような気がした。

青春18きっぷで旅をするのは運賃を節約したいからではない。むしろ限られた時間を有効に使いたいからだ。車窓を流れる見知らぬ風景は濃密な時間を与えてくれる。目標に一直線に挑む生き方と違う、自由気ままにその時の思いに従って行動することも豊かに生きる手段であると考えられるようになった。

おそらく歳のせいばかりではないと思う。時間と距離こそが人生を豊かにする最大の鍵だと思えるようになった。自らを縛ってきた呪縛から心を解放することが目下の最大の課題なのだ。

知床旅情_羅臼岳頂上からオホーツクを眺める

羅臼岳頂上から知床連山を見る

国後島

北海道の東端、オホーツク海に角のように突き出した知床半島は、昭和生まれの世代には加藤登紀子がギターひとつを伴奏に哀愁を込めて歌いヒットした、森繁久彌作詞・作曲「知床旅情」の歌詞で初めて聞く地名だった。下って平成生まれの若者には日本では数少ない世界自然遺産である「さいはての地」のイメージだろう。

今年四月には半島を周遊する遊覧船が沈没し、いまだに多くの犠牲者が未発見なままで、危険な未開の地として、あらためて全国に知られることなった悲劇の地でもある。

一方、多くの旅行好きやクライマーにとって、アイヌの言葉で名前がついた深い森や沼や滝、遡上する鮭を捕るヒグマやオオワシオジロワシ絶滅危惧種シマフクロウが生息する,、日本にわずかに残された手つかずの希少な自然の生態に満ちたこの地は、一度は訪ねたい憧れの聖地にほかならない。

月十四日、曇り時々雨のなか、旭岳温泉から次の目的地ウトロの町までおよそ三百キロメートルあまりを、森の中に拓かれたまっすぐな道をひた走った。まる半日かけての移動だった。途中、小清水町の道の駅に寄り道し、登山用品店「モンベル」で新しい小型のガスバーナーを購入した。持参した30年以上愛用のバーナーが旭岳に登った際に火がつかず、使えなくなっていることに気づいたからだ。半島の付け根を通過する際には、この地でもうひとつの深田百名山に名を連ねる斜里岳が、裾野をなす広大な一面の緑の畑の向こうに見えるはずだったが、頂は雲に隠れていて眺めることができなかった。宿泊予定地の知床第一ホテルにチェックインしたのは午後四時を回る時間だった。自分はニ度目、妻は初めての知床観光だ。ここに三連泊した。

今年の八月中旬の北海道は大雨が続いている。知床観光のプランは何も決めていなかった。妻とは、とりあえず知床に着いて天気の具合で決めようと話していた。犠牲者には新盆だからだろうか、前日にはたまたま遊覧船遭難者の遺骨や身に着けていた遺留品が新たに見つかったとニュースに流れていたから、船上から鎮魂の花を手向ける観光船乗船はどうか。あるいは定番の知床五胡ガイドつきトレッキング、岬や奇岩の海岸を巡る自然観察ツアー、知床半島の中央をウトロ町と羅臼町をつないで横切る知床横断道路の中間点である知床峠まで片道十六キロメートルを登り知床連山を眺めるトレッキング、秘境の温泉滝巡りなどなど、知床にはいろいろな観光プランが考えられる。ヒグマやエゾシカ、キタキツネにも出会えそうだ。でも究極は、天気さえ許せば、頂上からはるかなオホーツクの島々を眺める羅臼岳登山だろう。

日本百名山羅臼岳登山は、難易度が星三つ、体力度が星四つ、標高差千五百メートルを登る本格的な中級登山だ。ガスバーナーを買った小清水のモンベルでたまたま目についたので購入した北海道の山の登山案内書にはそう書いてあった。読むと、頂上からは素晴らしい景色が眺められるとある。

大雪山中からの車中で、翌日のウトロ町の天気予報をみると日中ずっと快晴のマークが並ぶ。もし天気がよいのなら行けるところまででいいので、羅臼岳に登ってみるのはどうだろうかと心がざわめいた。今回の北海道旅行のメインは大雪山旭岳に登ることだったので、心の準備が万全ではないが、さい果ての秘境でシンボルの羅臼岳に登れればすばらしい記念になるだろう。

ホテルに着き、意を決して翌日の朝食をキャンセルし、握り飯を作ってもらうことにした。羅臼岳に登ろうと決めた。

登山口の木下小屋、意外と小さな小屋だった

羅臼の頂ははるかに遠く、つらかった。

二日目の朝、ホテルを朝5時前に出発した。登山口に近い岩尾別温泉「ホテル地の涯」のすぐ手前でヒグマに突然遭遇した。道路を悠然と横断して車には全然おじけづかない。いきなりの出会いに動転して写真を撮ることができなかったのは残念だった。ホテル前の路上に駐車し、すぐ先の木下小屋で登山届を書いて歩き出した。頂上までおよそ5時間半だった。オホーツク展望台、弥三吉水、極楽平、銀冷水、大沢入り口まで比較的なだらかな登山道を登って行く。弥三吉水まではミズナラ、それを過ぎるとダケカンバの森のなかを歩いた。大沢沿いの登山道にはたくさんの高山植物の花が咲き残っていた。大沢の上部の急登を過ぎるとハイマツ帯の羅臼平に着いた。ここで初めて羅臼岳の威容を目にした。頂上へは胸を突く険しい岩場の登りだった。

樹間からオホーツクの海が見える

弥三吉水、生水が飲めるらしい

極楽平はダケカンバの森の中で眺望はない

銀冷水、この生水は飲めない

夏の花が残る大沢の急坂に沿って登る

ひときわ鮮やかなエゾツツジ

ようやく羅臼

羅臼平から眺める頂

羅臼岳の頂へはきびしい岩場を登らなければならい。ここが一番きつかった。

頂上は足がすくむほど高度感が満点の狭い岩上だった。雲間に国後島が見える。知床連山も手が届くほどすくそばだった。おそらくもう二度と登ることがないでろう地の果ての頂からはオホーツクをはじめ四方がよく見えた。目の前を積乱雲が立ち上がってきている。よくここまでこれたものだと率直に感動した。

貴重な記念写真

下りの岩場では脚に力が入らず、頭から転んでしまった。幸い怪我はなかった。ながい下りでストックを握る親指が痛くなった。登山口には16時直前に帰り着いた。

下山道では途中で頂上で一緒だった登山客や遅れて登ってきた者たちも含めて、多くの登山者に追い抜かれた。おそらくこの日の最後の下山者だったのでないかと思う。標高差千五百メートルの日帰り登山は予想以上に大変だった。今まで登った日帰りピストン登山では一番の標高差だったと思う。ちなみにこれまでもっとも大変だと印象に残る両俣小屋から南アルプス間ノ岳の日帰りピストン登山の標高差は千二百メートルだったので、体感的にはこれまででもっときつい登山のようにと感じたのもあながち誤ってはいないのだろう。あるいは体力の衰えもあるかもしれないが、単純にこの難行を無事終えることができてほっとした。

知床の三日目は時折強い風が吹く曇り時々雨の天気だった。すっかり疲れ果てて観光はできず、一日中ホテルのベッドで寝て過ごした。前日の二日目もこの三日目も海が荒れて観光船は休航になっていた。結局、羅臼岳登山のみで知床観光は何もせず、四日目の早朝には予定通り新ひだか町に棲む孫の顔を見に知床を離れた。せっかく北のさいはてに棲む動物たちを撮ろうと持ってきた望遠レンズの出番はなかった。帰り道、知床峠を車で通ったが一面のガスで何も見えなかった。下った羅臼町は晴れていて道の駅で花咲ガニ買って手土産にした。すぐ目の前が国後島だった。

左手の親指付け根は腱鞘炎になってしまい、このブログを書いている一週間が経ってもまだ痛みと腫れがひかない。
失ったものを嘆くより、まだあるものに感謝したい。年とともに衰える体力のなか、羅臼岳に登ることができた夢のような出来事を心から喜びたいと思う。

羅臼町の道の駅でお土産の花咲ガニを買った

 

大雪山旭岳に登る

深田久弥の山岳エッセイ「日本百名山」は北海道の孤島利尻島に聳(そび)える利尻山に始まり屋久島の宮之浦岳に終わる。

利尻山に子どもたちを連れて登ったのは今からちょうど30年前の夏だった(1992年8月17日)。この日は暑い日で持参の水を途中で飲み干してしまい、からからにのどが渇いてしまった子どもらを励ましながら下山したことをよく覚えている。それ以前にも夏休みには関東甲信越地方のたおやかな峰々に子どもを連れで登ってはいるが、なんとなく百名山を意識して山歩きをしだしたのはこの深田百名山一番目の利尻岳に登った以降のような気がする。

百番目の宮之浦岳に登ったのは昨年の梅雨時だった(2021年6月23日)。雨の多い屋久島なので登山が無理でも、あこがれの屋久杉の森を歩くことができればと離島に渡った。幸運にも予想外の晴天に恵まれ、登山口に近い無人小屋(淀川小屋)に前泊して宮之浦岳の頂上を踏むことができた。これで百名山の一番と百番に登ることが出来たので、実際には百の頂には登ってはいないけれど、なんとなく我が家の百名山登山は卒業のような気がしていた。

それでも、もし機会があれば登ってみたい山々がまだ数々と残っている。筆頭は大雪山旭岳だ。

北海道の屋根と呼ばれる大雪山にはこれまで何度か足を運んでいる。はじめて大雪山系に登ったのは大学に入学してすぐのワンダーフォーゲル部の夏合宿だった。もう50年以上も前になる。この時は五色ガ原とトムラウシ山を周遊し、旭岳には足を延ばさなかった。

二度目の大雪山登山では、ロープウェイに乗って黒岳に登り石室に泊まって、赤岳を経て銀泉台(ぎんせんだい)へ下った。2016年8月3日から翌日にかけてのことだった。そろそろ夏の花の終わりに近づいた時季だったが、それでもまだあちこちに雪渓が残り、たくさんの高山植物の花が咲く登山道を爽快に歩いた。

陥没によってできたとされる山上に広がる平らな御鉢平(おはちだいら)を挟んで黒岳と南北に対峙する旭岳が大雪山系の最高峰だ(2290m)。黒岳石室に泊まった時には雲に覆われて眺めることが出来なかった。できればこの雄大大雪山の最高峰に立ってみたいと思ったのはこの時だった。その後、何度か旭岳登頂に挑んだが悪天候で夢は実現しなかった。

岳温泉から眺めた旭岳の夕景

赤いオーロラのような大雪山の夕空

山の日とお盆休みを控えて、暑い関東を離れ、今年の夏も北海道に避暑に行くことにした。前半は旭岳の登山口の旭岳温泉に泊まり天候が許せば旭岳に登りたい。後半は妻の希望で知床半島ウトロの知床第一ホテルを予約した。この四月に遊覧船の事故があったばかりの知床半島では追悼と鎮魂を兼ねて知床五胡の周遊や知床峠から山並みを眺め、そのあと新ひだか町に住む孫にも会いに行きたい、と欲張った夏休み計画を建てた。

8月11日朝、羽田からの始発便に乗って新千歳に飛び、あとは車で道内を移動する計画だ。最初の宿泊地の旭岳温泉ではユースホステル白樺荘に三連泊した。二度目の宿泊だ。着いたこの日は快晴で絶好の登山日和だったようだ。夕方の宿舎の窓からは美しい夕景が見えた。夜半、雨になった。北日本各地は豪雨にみまわれ秋田や青森で大規模な水害が起きていた。北海道でも胆振日高地方は大雨だったようだ。二日目の朝になって雨は上がったが、山は厚い雲に覆われていた。山の天気は気まぐれで、おそらく登山は無理だろうけれどダメ元で、ロープウェイに乗って中腹の姿見駅まで行ってみることにした。案の定、ロープウェイを降りると視界は十メートルほど。足元の花だけ見られればよし、との意気込みで登山はあきらめて花の咲く裾合平(すそあいだいら)に向かって歩き出した。しかし、いくらも歩かないうちに雨足が強くなってしまった。視界が5メートル前後まで悪化してしまったので諦めて下山した。宿舎で作ってもらった昼食用のおにぎりは宿舎に戻ってから食べた。あとは露天風呂に入って持参のスコッチ・ウイスキーを飲んで過ごした。

三日目の朝は奇跡的に快晴になった。山の天気はまったく予測不能であることを実感する。二日連続して始発のロープウェイに乗り、今日こそはと頂上を目指すことにした。初めて見る姿見の池越しの旭岳の雄大な景色に感動した。念願の頂上に登れそうだと思った。頂上では大パノラマが堪能できるとガイドブックにあった。

旭岳は活火山だ。絶え間なく噴き上げる白い噴煙を眺めながら登山道を登る。けっこうな急登でバテそうになった。独特な形の金庫岩を過ぎた辺りからガスが上がり視界が途絶えた。

姿見の池と旭岳

ロープウェイ姿見駅を振り返る

爆裂火口の絶壁に沿って登る

登山道、上の方に金庫岩が見える

金庫岩

旭岳頂上

頂上には2時間で着いた。晴れていれば360度の眺望が得られるはずだが残念ながら何も見えなった。それでも念願の頂上を踏むことが出来て感激だ。

下山路は裏旭岳を正面に見ながらガレ場を下り熊ケ岳との鞍部にある裏旭キャンプ場をかすめて間宮岳から中岳温泉、裾合平を経てロープウェイ姿見駅に戻った。歩行時間7時間30分の山歩きだった。

旭岳からの下りの難所

熊ケ岳との鞍部にある裏旭キャンプ場

たおやかな間宮岳を過ぎるあたりからガスが切れて景色が見えるようになった。御鉢平の向こうには台形の形をした黒岳や以前に泊まった黒岳石室とキャンプ場が見えた。

記念写真を撮ってもらった間宮岳山頂

御鉢平

岳温泉

一面にチングルマが広がる裾合平

景色を眺めながらの周遊はなんとも気持ちのいい時間だった。もし可能であれば、一面に花が咲きそろう7月の中旬に裾合平をもう一度歩いてみたいと思った。

大雪山系は来るたびに新たな体験や感動を与えてくれる。年齢もあるので、安全に行けるところは限られているが、残雪の季節、花の季節、紅葉そして樹氷の冬、きっと四季折々にすばらしい体験ができる山だと思う。

長年の憧れの山にまたいつ立てるかはわからないけど、きっとまた幸運が巡ってくることを期待したい。四日目の朝、雨のなか、次の目的地である知床半島へと移動した。

立秋

今日は立秋。なぜか昨日、今日と涼しい日が二日続いた。寒い暑いと騒いでも季節はしっかりと巡る。

昨日は金沢八景駅からバスに乗って鎌倉の鶴岡八幡宮ぼんぼり祭りを見に行った。

少しはやく家を出て途中、浄明寺で下車し、隠れ家のような古民家の寿司屋「和さび」で夕食をとって日暮れを待った。

「和さび」は昭和初期の古民家で営業する小さな寿司屋で、寿司を握る主人と給仕の初老の男性(息子さんか)、会計を担当する高齢のご婦人三人で営まれている。過去にタイムスリップしたような錯覚に陥るここでの営業は今年で二十八年になるという。当代一代限りの営業だと言っていた。

古民家寿司「和さび」

親指ほどの大きさに握られた江戸前寿司がここの名物だ。カウンターはわずか八席、突然の訪問だったので後方の和室でコースを頂いた。初めて訪れたが、好事家には有名な店らしい。話のタネに一度は訪ねてみる価値があると思った。小さな寿司でも19貫も出てきたので満腹になった。日本酒の銘柄が選べないのが残念だった。食後、八幡宮までおよそ二十分ほどをあまり歩いて行った。

鶴岡八幡宮ぼんぼり祭り

ぼんぼりというよりは灯篭に近い

八幡宮ぼんぼり祭りはしめやかなお祭りだ。立秋前後の三日間だけ行われている。

薄明りのなかに浮かぶ四百あまりの灯篭が幻想的な雰囲気を醸し出していた。若い女性の浴衣姿が目立った。蒸し暑い夏の夜、涼をもとめて老若男女が集い、行く夏を惜しむ行事なのだろう。しかし今年は暑すぎる。早く涼しい秋がきてくれることを願って帰ってきた。