バルセロナ_スペイン瞑想旅行

バルセロナには夜19時近くに着いた。ホテル(Senator  Barcelona SPA)にチェックインする前に、市内のレストランで夕食を食べた。バルセロナの郷土食のフィデウア(ショートパスタのパエリア)がメインの簡易コース料理だった。この店の料理は正直言って、不味かった。口に合わないのは、好みの問題だけではないと思う。この料理が不味いのではなく、おそらくこの店の料理が不味いのだ。残念ながらレストラン名を記録しておかなかったのが、今から思うと心残りだ。

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(見た目はうまそうな郷土料理、フィデウア)

バルセロナでは同じホテルに二連泊した。SPAと名の付く宿だったが、ごく普通のホテルで温泉施設があるようには思えなかった。二日ともビュッフェ式の朝食に、早い者勝ちで量限定のスパークリングワイン(ガバ)が出たのが印象的だった。寝起きに飲んだ冷えたガバは格別の喉越しだった。

バルセロナとはどんなところなのだろうか。訪れた時、前もって知っていたのははサクラダ・ファミリアがこの街にあることだけだった。帰国後、少し学習してみると、以前から断片的に感じていたことやおぼろげに知っていたことにあらためて出会う機会となった。

スペインは、これまでたくさんの偉大な芸術家を輩出してきた。とくに十九世紀後半から二十世紀前半の百年間に、その後、現在まで続く革新的な現代芸術の牽引者を次々と生み出した。その中でもっとも偉大な芸術家はピカソであることに異論はないのではないか。次々と画風を変え、究極のキュビズムを突き抜けて新古典を経て、彼が最終的にたどり着いた自由で斬新な芸術性は、いま私たちの目の前にある日常生活の隅々にまでその影響を与えた。ピカソが伝統的な芸術概念の徹底的な破壊者であるとともに、あらたな芸術論を異次元へと導いた創造主でもあると思うのは、あながち個人的な独り合点ではないだろう。

日本にもこれまで沢山の孤高の芸術家がいた。生前は全くの無名に過ごし黒潮洗う奄美の自然をライフワークとして赤貧の中で命を終えた不遇の日本画家、田中一村もその一人だ。彼はピカソを心から尊敬していた(「日本のゴーギャン 田中一村伝」、南日本新聞社編、小学館文庫、1995年)。その理由が全く分野の違う一村の日本画を眺めているとなんとなく理解できるような気がする。

スペインに吹く風にはおそらく、伝統に囚われず既存の概念を塗り替える魔力が含まれているに違いない。眩しい光の中で、宗教や文化が複雑な綾となり、選ばれた者に創造の神の啓示が宿るのだろう。なかでも、ここバルセロナの地にゆかりのある芸術家は多い。画家ではピカソ、ミロ、ダリ、建築家ではガウディが筆頭だろう。およそ今から百年余り前、彼らはこの地で不思議な霊気を吸って生きていたはずだ。あるいは街角やカフェですれ違っていたかもしれないし、言葉を交わしていたのかもしれない。

バルセロナ二日目の午前中の観光計画はサクラダ・ファミリアの訪問だった。

バルセロナに憧れたのはガウディが命をかけて 取り組んだサクラダ・ファミリアがあるからだ。いつ完成するともしれない巨大な教会建築。彼の死後も脈々と作業が続いている未完の建築物。

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個人旅行と違い既成の団体ツアーでは時間の制約がある。決められたコースを予定の時間で観光するのがルールだ。団体旅行とはそういうものだろう。自由気ままな感情旅行をするにはツアー旅行はそぐわない。いよいよガウディと会える時がきたという、感傷の余裕もなく近くの駐車場で借り上げのツアー・バスを降りた。現地在住のガイドの後ろを歩き教会に向かった。よく晴れた青空をバックに石の尖塔の頭部と巨大なクレーンが見えた。道を隔てて正面入り口の真ん前に立つ。脇侍の頭部に華やかな飾りのある低い尖塔や無数の複雑な突起物をもつ巨大な建造物と対峙した。工事中の正門は保護壁に覆われていた。どこにでもある工事現場の風情だった。こみ上げる感動というよりは誤って工事現場に踏み込んでしまい困惑したというのが本音だ。

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西ヨーロッパは石を刻んで文化を築いてきた。数百年を超える、普遍で不動の石の遺構がその歴史を積み上げた者達の意志を伝える。現地ガイドの流暢な日本語での説明が続く。サクラダファミリアでは、現在、建築材料としてコンクリートも使われていると説明する。不変の石塊が描く永遠の幻から現実の世界に引き戻された気がした。知らなくても良いことまで知ってしまった後ろめたさ。

コンクリートはこれまで生きてきた二十世紀後半の日常の中でひび割れ、崩れ、滅びる物の象徴のように感じてきた。まさに二十世紀を象徴する文明の姿だと思ってきた。空を貫く鋭い情念は危うい文明に侵されてしまったのだろうか。目の前が霞み暗くなる思い、それがこの憧れを眼前にした第一印象だった。

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(まだ未完成の正面入り口)

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建物の中に入ると印象は一変した。

広い空間、色とりどりに光り輝くステンドグラス、太く屹立する石の柱群、高い天井。今通ってきた未完の正面入り口を背にして、内部と向き合う。ガウディの不屈の遺志が光となって眼前に現れた。想像していた通りの空間が目の前に広がっていた。

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(この稿を書き出してからすでに十日が経った。何故、なかなか先に進まないかというと、世界史や芸術論について、無知なためだ。あちこち調べ物をしたり本を読んだりしながらの寄り道が必要で、時間がかかっている。)

ガウディはバルセロナ郊外の田舎町で生まれた。レウスという、バルセロナから南に110キロメートル離れた当時人口2万人の小さな地方都市は、それでもカタルーニャ第二の町だった。田舎とはいえ綿工業で栄えていたこの地は芸術活動の盛んな町だった。彼は貧しい労働者階級の家に生まれた。教育熱心な両親 はともに代々続く銅や鉄の金属細工の職人だった。この家庭環境も後年、彼の生み出した作品に大きな影響を与えたことは想像に難くない。蛇足だが、同時代にウイーンで活躍した画家、クリムトも金細工師の家に生まれている。石削から金属加工へ、なんらかの共通した時代背景があるかもしれない。

末っ子に生まれ、幼少期は病弱で、必ずしも勉強好きとは言えなかった彼は、長じてバルセロナに出て建築家の資格をとった。当時のスペインでは、建築家は医師や法律家とともに特権階級に属すエリート集団の一員だった。二十代後半の若い建築家である彼が後の世にその名を残すことになった理由には、彼自身の天才としての資質とともに当時のバルセロナを包む時代の背景や運命的で幸運な出会いがあったからである。当時のバルセロナはスペインで唯一産業革命が起こった都市であった。繊維工業を主体とした商工業の興隆で、かつてはイタリア半島ギリシャにおよぶ地中海帝国の覇者であった往時の栄光を偲ばせるほど、経済的な発展と活気に溢れていた。万国博覧会の開催を機に、新興資産家であり彼の生涯のパトロンとなるグエル(グエイ)との宿命的な出会いが彼の芸術家としての生涯を決定づけた(田澤耕著「物語 カタルーニャの歴史」、中公新書、2000年)。

彼は自他ともに許す、カタルーニャへの強い郷土愛を持つ人物であった。初期の作品であるグエル別邸の門にカタルーニャの伝承にまつわる竜(ドラゴン)の造形が取り入れられているのも、彼の郷土の歴史への強い思い入れの表れだろう。この世紀末のバルセロナでは経済的な発展にともなう文化復興運動(レネシェンサ、カタルーニャ語ルネサンスの意味)と新たな芸術活動であるモデルニスモ(ムダルニズモ)と呼ばれるうねりがみられた。ほぼ同じ時期に西ヨーロッパで起きたアール・ヌーボーが都会的なメトロポリタンな芸術活動であったことに対してモデルニスモはあくまでもカタルーニャの独自性と独立を主張することに立脚していた。しかし、ガウディの芸術はモデルニスモの枠にとどまってはいなかった。

弱冠31歳でサクラダ・ファミリアの建築に携わるようになり、生涯を終える74歳までの43年間、全身全霊をかけたこの建築物は、歳月とともに大きくその芸術スタイルを変えた。ネオ・ゴシックに始まり、シュールレアリズム、ハイパー・レアリズム、幾何学構成主義とも言えるスタイルへと発展していった(丹下敏明著「バルセロナのガウディ建築案内」、コロナ・ブックス、2014年より引用)。

この建築のうち彼が生存中に完成したのは全体の一割にも満たない。その部分が世界文化遺産である。すでに140年近くを経て現在も完成への努力が続く。現地の説明では彼の没後百年を記念する2026年の完成を目標に作業が進んでいるという。おそらく、あるいはそれより前に完成するかもしれないと説明された。印象では正面のステンドグラスを除くと内部はもうすでに完成しているように見えた。細部の意匠にいくらかの不調和と振幅を感じる建物内部を隅々まで見て歩きたかった。しかし、この貴重な遭遇と限られた時間を、天蓋(バルダキーノ)の下に中吊になったキリスト像のある中央祭壇の前でミサ用の長椅子に座って過ごすことにした。言葉にしてしまうと消えてなくなってしまいそうな感慨と不安を胸に、祈りのための椅子に座り、無言でじっと祭壇を見つめて過ごした。

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ガウディがサクラダ・ファミリアの建築を依頼された当時、彼は無神論者であった。当初、まだ駆け出しの建築家であった彼にとって、この仕事は宗教性を抜きにした物理的な芸術作品の製作という位置付けであったようだ。おそらく相次ぐ家族の夭逝や当時のバルセロナの急速な発展が伝統的な宗教への反発や不信につながっていたのだろう。やがて彼は敬虔なカソリック信者へと変貌する。この教会建築に対する深い洞察が彼をストイックで思慮深い宗教的な境地へと導いたのではないか。人一倍頑固でこだわりの強い彼は自らの作品を生み出すことへの没頭を通して個人的なスケールの信仰という境地を超えて、宗教の本質に目覚めたのではないか。生前、唯一彼自身が手掛けた生誕のファサード(外面とか外壁を意味する言葉)を埋め尽くすキリストをはじめとする聖書に登場する聖人たちの姿には彼の信仰へのひた向きな思いが表れている。これらの彫刻群はまた、彼の卓越した空間演出力に加えて彫刻家としての非凡な才能を示す。

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聖母マリアの戴冠)

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(マリアとヨセフの結婚、ラッパを吹く天使)

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(生誕の門の上部、奏楽の天使たち)

建築家としてのガウディの手法はきわめて異色だった。大勢の多職種の専門家が分担して計画的に作業を遂行する建築という複雑で緻密な分野において、彼は異端であったといっても良いかもしれない。彼は複雑なサクラダ・ファミリアの設計に際して、詳細な設計図を作らなかった。簡単な略図やスケッチは描かれたが、主な意匠は彼の生涯にわたる製作上の支援者となった助手、リョレンス・マタラの力を借りて作られた精密模型によって現場の職人に伝えられた。しかも精密模型は工事の途中で何回も作り直され、変容しながら作業が進められた。もし精密な設計図が残されていれば、彼の死後この建築はもっと早く完成に至ったはずだ。不幸なことに、残された模型の多くも勃発したスペイン内乱によって失われてしまい、彼の意図した完成形は彼の弟子や孫弟子の芸術的な推察によって継続され現在に至る。ガウディにとってライフワークであるこの建築は彼の心の中で進化しつづけ、あるいは彼自身もその完成図を描ききれずにいたのかもしれない。その意味でこの聖家族教会は彼にとって単なる建築物としての存在を超えて、芸術家としてのガウディの存在そのものであったのかもしれないと思えてならない。

静かに波打つ感動に圧倒され、予定の団体観光はすぐに退出する時間となってしまった。

サクラダ・ファミリアの後にして、新市街のカサ・ミラを観に行った。中には入らず外観を見ただけだった。

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カサ・ミラは石切り場とあだ名される。石を積み上げたあとに外壁を石工に削らせ、全体は波打つような曲線で仕上げられており、バルコニーを飾る黒い複雑な形状の鉄製の装飾が印象的な建物だ。ガウディ最晩年の豪華な市井建築である。山をイメージしたとされる解説と海を象徴するという説明がある。内部は海をイメージしてデザインされていることと石切り場のあだ名から山のイメージに軍配が上がるのかもしれない(雪山を表すとも言われている)。見る者にいろいろな想像を生み出すガウディの手法が面白い。

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同じくガウディ作のカサ・パトリョは修復作業中でシートで覆われており、外観を見ることができなかった。

昼食は市内の日本食レストランで熱い味噌汁付きの松花堂弁当を食べた。やや濃いめの味付けだった。午後は自由時間だった。

カタルーニャ広場で解散して、開放的な歩法者天国のランブラス通りを歩いて南下し、コロンブスの記念塔から丘の上のミロ美術館を目指すことにした。タクシーかロープウェイに乗ればよかったのだろうが、この歴史ある街並みを自分の脚で歩きたかったので、地図を片手にモンジュイックの丘を目指して歩いて行った。

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(バス乗り場になっているカタルーニャ広場の一隅)

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コロンブスの塔近くのランブラス通りの南端)

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バルセロナ港近くのポルタル・デ・ラ・パウ広場に立つコロンブスの塔。西を指差す)

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(モンジュイックの丘から眺めたバルセロナ市街)

坂道の途中で右折と左折を間違えてしまい、すぐ近くまで来ているはずの美術館へは到達できず、モンジュイック城遺跡博物館のすぐ手前で疲れてしまった。ミロ絵画の鑑賞は断念して、崖の斜面を利用した公設駐車場に接して設けられているテラスに腰を下ろし、はるかに広がる市街地を眺めながら冷えたビールを飲んだ。午前中に鑑賞したサクラダ・ファミリアや歩いてきた街並みが一望できた。視界の果てはたおやかに波打つ山で遮られた。地中海は霞んで見えなかった。

休憩後、また徒歩で街はずれの裏町や住宅地を抜けて繁華街に戻り、バルセロナのカテドラルや商店街のショウウインドウを眺めながらそぞろ歩いた。

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バルセロナのカテドラル)

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(道端では結構な歳のおじさんが歌を歌っていた)

夕食はカテドラルの広場に面したピンチョス専門店で地産ワインとともに本場のピンチョスに舌鼓を打った。庶民の味を求めて、地元の市民や観光客が次々と入れ替わり、陽気でサービス精神旺盛な店員がいかにもスペインにいることの至福を感じさせてくれた。料金は帰り際にピンチョス料理に刺さる串の形と本数で清算する、至って明朗会計だった。クタクタになったがスペインに来た喜びを実感した一日だった。

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(ピンチョスとはそもそも串という意味だ。形状に注目を)

バルセロナの三日目はグエル公園サン・パウ病院を見学して午後の飛行機でマドリッドに戻った(バルセロナ13:30発、マドリッド14:55着)。長くなったのでグエル公園ついては次のブログに記載することにした。