我が家の黒電話

 久しぶりに関東を直撃した大型台風15号は残念ながら危惧したとおりの大きな被害を残して去っていった。木が折れ屋根が飛ばされ電柱が倒れた。

神奈川県は台風襲来直後に崖崩れや浸水があったけれど大きな人命被害はなく、懸案の停電もほぼ全域で昨日までに回復したようだ。一部、鎌倉の奥の風光明媚な二階堂地区ではまだ電気が回復していないとニュースが伝えている。鎌倉には知り合いが住んでいるが、この地区ではないので被害の状況は我が家に届いていない。

いつも図書館への道すがら通るお散歩コースの公園では太い木が何本も折れている。

東京湾を隔てた千葉の房総半島で被害がもっとも甚大で、広域でいまだに停電が続いているという。秋雨前線はこれから本格的になる季節、あらたな二次災害も心配だ。被災された方々、とくに高齢者の皆さんが健康被害なくこの災難をなんとか乗り越えてくれることを祈りたい。

台風はもちろんのこと地震や人災を含めて、暮らしや命を支えるライフラインは意外と細い綱のような危うさにあることを改めて感じた。

災害時にすぐ遭遇する危機は、体と心を休める場所の確保だろう。疲弊した体や精神を休める場所と情報交換や励まし合える話相手が必要だ 。いざという時の救護所や避難場所がどこにあるかをいつも気にかけておかないとならないのは頭では理解している。でもテレビやインターネットなどの便利な道具があるので、すぐに調べられるだろうからと、日々の暮らしでは全く気にかけていないのが実情だ。

水や食料も命を支えるものとして重要だけれど、今回の災害で今更ながらに認識されたのは情報とそれを入手するためのインフラの脆弱性だ。テレビがあり、スマホを持ち、蛇口をひねれば清潔な水が流れ、スイッチをひねればたちまち暖かい料理に出会える。電気がなければその全てが使えない。災害によって電気が途絶えてしまえばその全てが破綻することを改めて認識した。特に集合住宅の生活は電気に依存するものが多い。水も明かりも移動手段のエレベーターも車庫から車を出すのさえも電気がないとできなくなってしまう。

この台風の襲来で我が集合住宅の電気は無事だった。前を流れる川も翌朝にはいつもの穏やかさを取り戻していた。エレベーターは水漏れが原因か、一時動かなくなった。低層の集合住宅なのでなんとか階段の昇り降りで凌げたが、もし何十階もある高層階だったらと思うと冷汗が出る。

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この住宅に引っ越してくる際に、高層住宅にするか低層の住まいにするか迷った。移住地と決めた候補地にちょうど二つの建築予定の物件があり、どちらかの選択肢が残った。高層であれば毎日、富士山が眺められるのが最大の魅力だし、低層であれば何かの時に自力で昇り降りできるのが安心だ。迷った末にこれから歳をとることも考えて今の住宅を選んだ。深刻に、あるいは用心深く考えたわけではなく、漠然とした不安感のような、小さなこだわりで決めた。残念ながら丘に遮られて窓から富士山は見えないが、おそらく正解だったと思う。

もう一つのこだわりは黒電話だ。居間の入り口に置いてある。留守電もファクシミリもできないダイアル式の古電話だけれど電気がいらない。停電になっても使えるのでそのまま置いてある。

孫たちが来るといつも珍しそうに眺めているのが面白い。これ使えるのかと訊かれるし、ダイヤルを回して不思議がっている。昭和の時代からずっと暮らしをともにする家族同然の黒電話だから時々磨いて綺麗にしている。

丸い受話器を耳に当てると、ひょっとすると若い頃の自分から電話がかかってくるかもしれないと思うことがある。黒電話なら時空を超えて過去や未来と話ができるかもしれない。黒電話にはそんなロマンがあるけれど、もし災害に遭遇してしまったら、きっと昔ながらのこの黒電話が命の綱になってくれるだろう。そう思うと、一緒に住む家族同然というばかりか、頼りになる我が家の守り神なのかもしれない。受話器を耳に当てると、きっと「大丈夫」と言ってくれそうだ。