史跡名護屋城跡

名護屋城は16世紀末、太閤秀吉の朝鮮出兵文禄・慶長の役)に際して出兵拠点として築かれた。日本100名城の87番に選定されている。城域の面積は約17ヘクタールにおよび、当時としては大坂城に次ぐ国内第2の規模を誇り、秀吉の絶大な威光を現在に伝える。

築城は、九州の玄界灘を眺める絶景の丘の上に、1591(天正19)年に始まり、諸大名による割普請(わりぶしん)によって、翌年にかけてわずか8か月で完成したという。1592(文禄元)年の開戦から秀吉の死で諸大名が撤退するまで、7年の間、この城郭が大陸侵攻の拠点となった。秀吉自身も1年余り在陣したという。秀吉の寝起きした茶室の跡が残っている。

周囲には130以上に上る諸大名の陣屋が構築され、静かな海辺の田舎町が瞬く間に、全国から集まった10万人を超える人々が住む巨大な城下町へと変容した。秀吉が唐津のこの地を「唐入り」の前線基地と決めた逸話が面白い。この海抜90メートルの小高い丘から海のかなたが見渡せることに加えて、秀吉の地元那古野と同じナゴヤという地名を奇遇に感じ、また城の立つ丘の名前が勝男山と縁起がいいことにも気を良くしこの地への築城を決めたという。

城塞は、秀吉の死後、関ヶ原の戦いによって豊臣勢が敗北し徳川政権の天下となった江戸時代の初期には破却された。石垣は広範囲にわたって崩され、廃材は当時の領主であった寺沢広高による唐津城の築城に再利用された。

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(本丸跡)

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天守台)

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中国大陸への侵略は秀吉が織田信長から引き継いだ永年の夢であり、野望であった。

当初は当時の中国の支配者、明王朝を征服することを夢見た秀吉であったが、服属と明征伐への協力を強要した高麗(李氏朝鮮)に拒否され、戦いは朝鮮軍と半島の住む民衆とが相手となった。開戦直後は快進撃をみせたものの、戦役は次第に手ごわい反撃によって泥沼化していった。迷走する侵略軍は兵糧が底をつき、次第に疲弊憔悴し、兵役に駆り出された諸国の大名にも多大な負担がのしかかることとなった。明との停戦協定によって一時休戦状態となったが、1597年に再開され、翌年の秀吉の死によってこの無謀な侵略戦争は終焉を迎えた。

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天守台から島々の浮かぶ玄海を眺める)

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過酷な戦役や徴発は豊臣政権の基盤をぜい弱化する原因となり、武家社会が次の徳川時代へと移り変わるきっかけとなった。その分岐点となったランドマークが名護屋城なのである。謂わば、日本が野蛮な中世から近世へと移り変わり、太平の江戸時代を経てやがて近代へと歴史が流れる、その起点となった場所がこの名護屋城なのである。天守のあった本丸に立ち、遥かに広がる蒼い海を眺めるとえもいわれぬ感慨が込み上げてくる。

およそ五百年前に島国日本の片田舎の農民の子として生まれ天下人にまで上り詰めた太閤秀吉の野望が海を越えて壮大なスケールで展開された史実は、その良し悪しはともかくとして、地球規模の世界観を私たちに要求する。同様なことが大東亜戦争と呼ばれた第二次世界大戦でも繰り返された。極東の小さな島国に過ぎないこの国に住む民衆の潜在する意識の底に深遠な不思議があることを感じずにはいられない。

朝鮮半島は日本にもっとも近い外国である。有史以前から朝鮮半島と日本列島には盛んな交流があった。根幹となる稲作文化や陶磁器の作成をはじめ日本の文明の本流のかなりの部分は朝鮮半島を経由してもたらされたことは誰でもが納得する事実であるだろう。両国の関係性は、長い歴史によって培われた、いわば血縁関係といっても過言ではない。

いま、韓国との関係がギクシャクしている。太平洋戦争時代の慰安婦問題や徴用工問題など、問題の真贋の有無や歴史的な経緯の是非にかかわらず先進国となった韓国には過去の日本に対する怨嗟のように染込んだ意識下の思いがあることは理解できる。古くは古代七世紀半ばの白村江の戦いや秀吉による文禄・慶長の侵略、そして明治時代以降の隷属など、さまざまな歴史が複雑な民族感情の背景になっていることはおそらく間違いないだろう。しかし、歴史は輝く未来のための礎であって欲しいと思う。地球規模で進行する現代文明がもたらした危機に対して手を携えて貢献、協力する関係であって欲しいと思うのは私だけではないだろう。一日も早く友好が回復してくれることを願いたい。

訪れたのが資料館が開館する前の早朝だったせいもあるかもしれないが、観光客はほとんどおらず公園内は閑散としていた。秋の盛りの名城には落ち葉が積もり、この城が辿った数奇な歴史ともに静寂な空気に包まれていた。