麗江ぶらり旅〜(その5)はるかな長江

この旅ではまったく予期していなかったいくつかの出来事に遭遇した。
ひとつは長江との出会いだった。
旅も終わりに近い1月2日の午後、空港へ向かう途中、麗江から西へ50キロメートルにある石鼓(せきこ、シークー)古鎮を訪れた。そこが、一生涯忘れないことになるだろう、長江との出会いの場所だった。
中国を横断するこの長大な川を日本では揚子江と呼んでいる。中国では長江あるいは、一文字で「江」と呼ばれる。ちなみにもう一つの大河、黄河は「河」と呼ばれているそうだ。
調べて見ると、この川の揚子江という呼び名は上海で東シナ海に注ぐ下流の部分の呼び名で、チベット高原から始まり今回訪れた長江第一湾のあるあたりの上流部分は金沙江、以後の中流は荊江と呼ばれている。

(石鼓鎮の坂道)

(16世紀にチベット軍を撃退した記念の古亭の石の鼓)

(長征の記念碑が建つ石鼓鎮の丘からみた長江)

(長江に接する石鼓鎮の街)
勝手な想像で、黄河は砂漠の黄砂を運ぶ荒ぶる猛獣のような濁流、長江は悠久の時をつなぎ、のどかにたゆとう大川のようにイメージしていた。実は、こんな想像とは違って、近代までしばしば氾濫を繰り返す黄河は底が浅く中流以降では水が少なく、このため水上交通が発達せず、太古、流域の交易は馬の背によっていたという。
それに比べてチベットを水源とする長江は南からの湿潤な風がもたらす雨によって水量が多く、早くから水運が発達した。これによって長江の流域では農耕と交易が栄え多くの都市文明が繁栄したとのことだ。

(川岸の展望地から見た長江第一湾)
長江第一湾とは、この川が最初に大きく180度方向転換する場所だった。
私たちの世代では、人類の文明の起源として黄河文明が世界四大文明発祥のひとつと教わったけれど、揚子江(長江)上流でもこれに匹敵する古代文明の隆盛があったことが現在の定説になっているようだ。
中国の歴史は長すぎてなかなか親しみが湧きにくい。いつか三國志を読むことがあるかもしれないが、今のところまだその意欲が湧かない。
そんななかでも、李白杜甫に象徴される漢詩の世界には憧れを感じてきた。
隋や唐の時代に日本との交流があった古代のロマンに惹かれるのは、はるか昔の遠い先祖から受け継いだ血が騒ぐからかもしれない。
歳の離れた詩仙・李白と詩聖・杜甫とには親交があり、互いの詩篇にはしばしば長江が登場している。
豪放な李白は酒に酔って溺れて死んだという。
思慮深い杜甫は叶わぬ栄達を嘆いて慎ましく死んだという。
二人がこんな辺境の長江の上流まで訪れた記録はないが、性格も詩風も異なるそれぞれが見つめた6500キロメートルにも及ぶ長大な川は歴史のロマンを乗せて今も流れ続けている。
長江との遭遇に、詩作に憧れた青春のほろ苦い思いが蘇った。