時間について

最近インターネットを眺めていたら、時間に関する面白い記事をみつけた。

重力が大きいと時間の進行が遅くなり、小さいと時間が速くなるというものだった。アインシュタイン一般相対性理論特殊相対性理論で予測されていた現象が、高精度に時を刻める「光格子時計」の開発によって実証されたいう。東京スカイツリーの天辺と地上ですら時間の進み方に違いがあることが検証されたそうだ。

確か、特殊相対性理論では光速に近い速度で移動する場合には時間の進行が遅くなるということが考察されていたと思う。

時間の進み具合は、高度や重力や移動速度によって変化するばかりではない。

若い頃の一日24時間は、今よりずっと長かった。子どもの頃の明日は今日から途方もなく先のことのように感じた。それこそ誕生日も夏休みもクリスマスも正月も、きっと来ないかもしれないと思うほど先のことだった。おそらく感覚だけではなくて、実際に時間の進み方が違っていたのではないだろうかと思う。脳の時間時計の進み方が違うのではないか。

働き盛りの、一刻一秒を争う緊張の連続する仕事を、額に汗して働いていた日々は、職場に入り気がつくと食事も足らずに夜になってしまうことが日常だった。一日は長く、そして毎日の密度が濃かった。

歳を取ると、時間が速く過ぎる。朝日がのぼり、夕日が沈むまでがあっという間になった。いまでは読書に夢中になり気がつくと字が読めないほどあたりが暗くなっていて、ようやく日が暮れていることに気がつくことが日常になった。

もうすでに老人と呼ばれる領域に踏み込んでいるのだから、長い、短いだけではなくて贅沢な時間の使い方があってもよいと思う。時間を無駄に使うことも悪いことではないと思うのだ。無駄というと語弊があるかもしれない。時間の流れを感じながら優雅に過ごすという感じだ。

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この年末年始は青春18切符を使って、山陰の旅に行った。大雪で列車が運休となり、たどり着けるか危ぶまれた城崎に一泊してから日本海を眺めながら兵庫県鳥取県の県境に近い湯村温泉に足を運んだ。今から40年ほど昔、吉永小百合がヒロインを演じたNHKのドラマ「夢千代日記」の舞台となった小さな温泉町だ。薄らではあるがテレビで何度かドラマを観た記憶が残っている。城崎で連泊の宿が取れなかったからがここを訪ねた理由だった。行き先はどこでもよかった。ただ気ままに贅沢に時間を使う旅をしたかった。予備知識もなく訪れた温泉町は入り組んだ町並みと古びた旅館がならび、源泉で温泉卵を作ることだけが名物の明るく狭い田舎町だった。なぜこの町がドラマの舞台になったのか分からなかったけれど、白血病で余命少ない芸妓がヒロインの重苦しいドラマの演出とは無縁のあっけらかんとした雰囲気がむしろ好ましかった。

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年男である寅年の今年の正月は京都で新年を迎えたいと思っていた。できれば初詣は比叡山延暦寺に行きたいた思って旅に出てきた。湯村温泉には一泊だけしてまた各駅停車の山陰本線に乗って京都に向かった。宿の車で最寄りの浜坂駅まで送ってもらい、昼過ぎの山陰線に乗り込み、豊岡と福知山で乗り継いで、その先の園部でJR嵯峨野線に乗り換え、12月30日の夕刻、京都に着いた。7時間弱のローカル線の旅だった。

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今年は伝教大師最澄の没後1200年にあたる。昨年から日本天台宗の開祖を偲び大遠忌の行事が各地でいろいろと行われている。昨年11月、最澄と日本の仏教の源流について、東京国立博物館で特別展が開催されていたので観に行った。

日本に生まれ育ったものの精神性には、意識するしないに関わらず、日本古来の八百万の神々の存在と、最澄空海という二人の偉人によって築かれた日本固有の仏教思想に大きな影響を受けている。この四方を海に囲まれた国に住むものは皆、神と仏によって生み出された多次元の世界のなかで日々を暮らしている。

神の世界も仏の世界も、生も死も、目に見えぬ時空とともに一緒くたに混じり合い、時間を超えて渾然とした無意識となって、今に繋がっている。悠久の流れの端で、神々は見ることの出来ない姿で生きとし生ける物の定めを司り、諸仏とその先達は衆生の行く末を見つめている。信仰や宗教と言う以前に、この精神性こそが日本という国を形作っていうように思える年頃になった。そんなことが思えるようになった、老年も悪くない。

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雪のちらつくローカル線の窓からは鈍色の海が見えた。あといくつ寝るとお正月なのだろうかと思いながら、時間の無駄遣いこそ、これからの自分にとってかけがえのない生き方ではないだろうかと思い立った。自分には無駄な時間がたくさんあるぞと思うと、なんだか幸福な気分になった。