知床旅情_羅臼岳頂上からオホーツクを眺める

羅臼岳頂上から知床連山を見る

国後島

北海道の東端、オホーツク海に角のように突き出した知床半島は、昭和生まれの世代には加藤登紀子がギターひとつを伴奏に哀愁を込めて歌いヒットした、森繁久彌作詞・作曲「知床旅情」の歌詞で初めて聞く地名だった。下って平成生まれの若者には日本では数少ない世界自然遺産である「さいはての地」のイメージだろう。

今年四月には半島を周遊する遊覧船が沈没し、いまだに多くの犠牲者が未発見なままで、危険な未開の地として、あらためて全国に知られることなった悲劇の地でもある。

一方、多くの旅行好きやクライマーにとって、アイヌの言葉で名前がついた深い森や沼や滝、遡上する鮭を捕るヒグマやオオワシオジロワシ絶滅危惧種シマフクロウが生息する,、日本にわずかに残された手つかずの希少な自然の生態に満ちたこの地は、一度は訪ねたい憧れの聖地にほかならない。

月十四日、曇り時々雨のなか、旭岳温泉から次の目的地ウトロの町までおよそ三百キロメートルあまりを、森の中に拓かれたまっすぐな道をひた走った。まる半日かけての移動だった。途中、小清水町の道の駅に寄り道し、登山用品店「モンベル」で新しい小型のガスバーナーを購入した。持参した30年以上愛用のバーナーが旭岳に登った際に火がつかず、使えなくなっていることに気づいたからだ。半島の付け根を通過する際には、この地でもうひとつの深田百名山に名を連ねる斜里岳が、裾野をなす広大な一面の緑の畑の向こうに見えるはずだったが、頂は雲に隠れていて眺めることができなかった。宿泊予定地の知床第一ホテルにチェックインしたのは午後四時を回る時間だった。自分はニ度目、妻は初めての知床観光だ。ここに三連泊した。

今年の八月中旬の北海道は大雨が続いている。知床観光のプランは何も決めていなかった。妻とは、とりあえず知床に着いて天気の具合で決めようと話していた。犠牲者には新盆だからだろうか、前日にはたまたま遊覧船遭難者の遺骨や身に着けていた遺留品が新たに見つかったとニュースに流れていたから、船上から鎮魂の花を手向ける観光船乗船はどうか。あるいは定番の知床五胡ガイドつきトレッキング、岬や奇岩の海岸を巡る自然観察ツアー、知床半島の中央をウトロ町と羅臼町をつないで横切る知床横断道路の中間点である知床峠まで片道十六キロメートルを登り知床連山を眺めるトレッキング、秘境の温泉滝巡りなどなど、知床にはいろいろな観光プランが考えられる。ヒグマやエゾシカ、キタキツネにも出会えそうだ。でも究極は、天気さえ許せば、頂上からはるかなオホーツクの島々を眺める羅臼岳登山だろう。

日本百名山羅臼岳登山は、難易度が星三つ、体力度が星四つ、標高差千五百メートルを登る本格的な中級登山だ。ガスバーナーを買った小清水のモンベルでたまたま目についたので購入した北海道の山の登山案内書にはそう書いてあった。読むと、頂上からは素晴らしい景色が眺められるとある。

大雪山中からの車中で、翌日のウトロ町の天気予報をみると日中ずっと快晴のマークが並ぶ。もし天気がよいのなら行けるところまででいいので、羅臼岳に登ってみるのはどうだろうかと心がざわめいた。今回の北海道旅行のメインは大雪山旭岳に登ることだったので、心の準備が万全ではないが、さい果ての秘境でシンボルの羅臼岳に登れればすばらしい記念になるだろう。

ホテルに着き、意を決して翌日の朝食をキャンセルし、握り飯を作ってもらうことにした。羅臼岳に登ろうと決めた。

登山口の木下小屋、意外と小さな小屋だった

羅臼の頂ははるかに遠く、つらかった。

二日目の朝、ホテルを朝5時前に出発した。登山口に近い岩尾別温泉「ホテル地の涯」のすぐ手前でヒグマに突然遭遇した。道路を悠然と横断して車には全然おじけづかない。いきなりの出会いに動転して写真を撮ることができなかったのは残念だった。ホテル前の路上に駐車し、すぐ先の木下小屋で登山届を書いて歩き出した。頂上までおよそ5時間半だった。オホーツク展望台、弥三吉水、極楽平、銀冷水、大沢入り口まで比較的なだらかな登山道を登って行く。弥三吉水まではミズナラ、それを過ぎるとダケカンバの森のなかを歩いた。大沢沿いの登山道にはたくさんの高山植物の花が咲き残っていた。大沢の上部の急登を過ぎるとハイマツ帯の羅臼平に着いた。ここで初めて羅臼岳の威容を目にした。頂上へは胸を突く険しい岩場の登りだった。

樹間からオホーツクの海が見える

弥三吉水、生水が飲めるらしい

極楽平はダケカンバの森の中で眺望はない

銀冷水、この生水は飲めない

夏の花が残る大沢の急坂に沿って登る

ひときわ鮮やかなエゾツツジ

ようやく羅臼

羅臼平から眺める頂

羅臼岳の頂へはきびしい岩場を登らなければならい。ここが一番きつかった。

頂上は足がすくむほど高度感が満点の狭い岩上だった。雲間に国後島が見える。知床連山も手が届くほどすくそばだった。おそらくもう二度と登ることがないでろう地の果ての頂からはオホーツクをはじめ四方がよく見えた。目の前を積乱雲が立ち上がってきている。よくここまでこれたものだと率直に感動した。

貴重な記念写真

下りの岩場では脚に力が入らず、頭から転んでしまった。幸い怪我はなかった。ながい下りでストックを握る親指が痛くなった。登山口には16時直前に帰り着いた。

下山道では途中で頂上で一緒だった登山客や遅れて登ってきた者たちも含めて、多くの登山者に追い抜かれた。おそらくこの日の最後の下山者だったのでないかと思う。標高差千五百メートルの日帰り登山は予想以上に大変だった。今まで登った日帰りピストン登山では一番の標高差だったと思う。ちなみにこれまでもっとも大変だと印象に残る両俣小屋から南アルプス間ノ岳の日帰りピストン登山の標高差は千二百メートルだったので、体感的にはこれまででもっときつい登山のようにと感じたのもあながち誤ってはいないのだろう。あるいは体力の衰えもあるかもしれないが、単純にこの難行を無事終えることができてほっとした。

知床の三日目は時折強い風が吹く曇り時々雨の天気だった。すっかり疲れ果てて観光はできず、一日中ホテルのベッドで寝て過ごした。前日の二日目もこの三日目も海が荒れて観光船は休航になっていた。結局、羅臼岳登山のみで知床観光は何もせず、四日目の早朝には予定通り新ひだか町に棲む孫の顔を見に知床を離れた。せっかく北のさいはてに棲む動物たちを撮ろうと持ってきた望遠レンズの出番はなかった。帰り道、知床峠を車で通ったが一面のガスで何も見えなかった。下った羅臼町は晴れていて道の駅で花咲ガニ買って手土産にした。すぐ目の前が国後島だった。

左手の親指付け根は腱鞘炎になってしまい、このブログを書いている一週間が経ってもまだ痛みと腫れがひかない。
失ったものを嘆くより、まだあるものに感謝したい。年とともに衰える体力のなか、羅臼岳に登ることができた夢のような出来事を心から喜びたいと思う。

羅臼町の道の駅でお土産の花咲ガニを買った