
お盆休みを控えて今年の夏は仏教伝来のゆかりの施設とシルクロードの始まりの地を巡る旅に出かけた。日本も暑い真夏の最中だったけれど、中国も猛暑の日々が続いて、特に敦煌では前の週に43℃の最高気温を記録したという。
8月8日(金)から14日(木)まで7日間とおまけの1日追加の旅だった。
8月8日(金)の夕方に成田を発って上海で乗り継ぎ、真夜中に西安着。
二日目(9日(土))西安市街と近郊、秦始皇帝兵馬俑坑の観光。
三日目(10日(月))高速鉄道で張掖(ちょうえき)へ移動、七彩丹霞(しちさいたんか)見学、張掖泊。
四日目(11日(火))氷溝丹霞(ひょうこうたんか、ひょうは中国語でにすいに水)見学後、高速鉄道で敦煌に移動、敦煌泊。
五日目(12日(水))敦煌莫高窟見学、鳴沙山(めいさざん)と月牙泉(げっがせん)観光、鳩摩羅什(くまらじゅう)ゆかりの白馬塔見学、敦煌連泊。
六日目(13日(水))敦煌郊外の玉門関と漢長城見学後、空路で敦煌から西安へ移動、西安泊。
七日目(14日(木))観光はなく、直行便で空路、西安から成田に帰国。帰国後、京成電車内の網棚にリュックサックを置き忘れ、おまけの15日(金)に、押上駅まで荷物を取りに行き、無事カメラを回収して旅行は終了。


私のシルクロードへの憧れは、1980年にNHKで放送された『日中共同制作シルクロード絲綢之路』を観たことに始まる。この番組はNHKと中国電子台が、1979年から翌年にかけて、中国・西安を出発点に中国領内のシルクロードを共同取材したもので、1980年4月から1年間、全12回シリーズ で放送された。

(敦煌近郊 月牙泉)
シルクロードは西安に始まり、はるかローマに通じる古代の交易路である。交易品として中国から茶、染料、香水、磁器、絹、銅、硫黄など、ヨーロッパからは馬、ラクダ、蜂蜜、ワイン、金などが輸出され、東西の経済・文化・政治・宗教の交流に中心的な役割を果たした。特に、金よりも高価な、当時は中国のみで生産されていた「絹」の西欧への販路とされていたことにより「絹の道(シルクロード)」と呼ばれるようになった(ドイツ人の命名で、冒険家ヘディンの旅行記「Silk Road」で世界的に有名になった)。
この道の一部はまた、唐の時代に高僧、玄奘三蔵が天竺(インド)に仏教の経典を求めて辿った「仏教伝来の道」でもある。この史実は、のちの明代に猿の化身である孫悟空が活躍する中国四大奇書のひとつとされる物語「西遊記」のモデルとなって、荒唐無稽な太古の冒険譚(ファンタジー)として親しまれている。日本では、美しい夏目雅子が玄奘法師役、堺正章が孫悟空、西田敏行が猪八戒(豚)、岸部シローが沙悟浄(河童?)に扮してテレビドラマ化されて大ヒットした。

史実によれば、玄奘は帰国後、唐の太宗の命によりインド・西域の地理書である「大唐西域記」を編纂している。これは地理書であって旅行記ではない。法師がどのように西域を旅行し、いかなる順序で西域・インド諸国を遍歴したかは、玄奘が西安の大慈恩寺で仏典の漢訳を行った際に、弟子の慧立らが「大唐大慈恩寺三蔵法師伝(全十巻)」(長澤和俊の日本語訳がある、光風邪出版社、昭和63年発行)を記し、現在に伝えられている。





中国は広大だ。面積はロシア、カナダ、アメリカ合衆国に次ぐ、世界第4位だけれど、3位のアメリカとほぼ同じだ。人口は最近インドに抜かれたとはいえ、それでも14億人と世界第2位を占める。もっとも中国の国土の3分の2は砂漠か山岳地帯で、人が住める環境は3分の1のみだそうだ。その意味で今回の旅行でまず驚きだったのは砂漠の広大さだった。
西安と敦煌を結ぶ道は河西回廊と呼ばれる。この団体旅行では西安から張掖、張掖から敦煌まで日本の新幹線に相当する時速200キロ超で走る高速鉄道で移動した。張掖から敦煌までは5時間近くかかった。日本の新幹線よりやや狭い車内から外を眺めるていると、どこまでも地平線が続く単調な砂漠地帯の景色に飽きて眠り込んでしまった。寝不足もあって、不覚にも二時間近くも眠り込んでしまい、目が覚めて車窓から外を見ると驚いたことに車窓に広がる景色がまったく変わらない砂漠だった。ずっとゴビ砂漠の中を走っていたのだ。それでもまだ列車は荒涼とした砂漠の中を走り続けた。スケール感が日本とはまったく違う。
物理的な大きさよりも凄まじいのは記録に残る長大な中国の歴史である。日本ではおよそ千七百年前に存在した邪馬台国がどこにあったのかさえ分からないのに、中国では今回訪れた西安ですら紀元前16世紀(殷の時代)の存在が知られている。中国四千年の歴史、恐るべしである。

(宿泊した敦煌迎賓館)
敦煌はゴビ砂漠の中の西側に位置する人口15万人の小さなオアシス都市である。しかし、ずっと殺風景な砂漠地帯が突然に緑溢れる街に変貌した驚きも今回の旅行の貴重な体験だった。
今回のこの旅行プランを選んだ理由は、ふたつあった。そのひとつは、歴史遺産である秦始皇帝兵馬俑と敦煌莫高窟に残る仏画をこの目で直に見てみたいことだった。
二つ目は、いま勉強中の大乗仏教伝来にゆかりのある施設を見学したいことだった。これについては別項<大乗仏教を学ぶ(続)>で詳しく書きたいと思っている。

圧倒的なスケールの世界文化遺産の秦始皇帝陵兵馬俑坑は始皇帝陵の東側1.5キロメートルに位置する。まさに壮麗という形容がふさわしい。この遺跡では約8000体の俑(よう、埴輪の意味)が確認されているという。兵馬俑坑は第1から第5号坑まで発掘されが、第4、第5号坑は遺跡が発見されず埋め戻された。
秦の始皇帝(紀元前259~210年)は紀元前221年に中国史上はじめて天下を統一した皇帝であり、それまで用いられてきた支配者の称号を大王から「皇帝」に改めた人物である。皇帝に就任した紀元前247年には陵墓の建設に着手したという。のちの漢代に書かれた歴史書(漢書)には「奢淫暴虐」と記され、人民を酷使した暴君と記れている。
東方を向いて整然と並ぶ俑にはすべて顔つきが異なる歩兵や将軍などの兵士、軍馬のほかにも馬車や兵器などを象(かたど)ったものがある。展示されている俑は、発掘時にはばらばらに破損していたものを一体ずつ復元したものだそうだ。発掘と再生はまだ途上で、すべての作業が終了するにはあと百年はかかると、ガイドの説明だった。









敦煌莫高窟は敦煌市街から車で1時間あまり離れた祁連(きれん)山脈の支脈にあたる鳴沙山の断崖にあった。ここには735の石窟が残り、このうち492の石窟には彩色された仏画や塑像が残っている。近づくにつれ見えてくる北区(北壁)は工人の居住区である。その先の南区(南壁)に掘られた多数の石窟は、内部の壁一面に仏画が描かれ、仏像が安置され、あるいは経典の保管庫(経堂)となっている。同じ石窟内の対面の壁面に法華経の説話や浄土教の阿弥陀仏の世界が描かれているものがあり、複数の大乗仏教の世界が共存する宗教感が大変に興味深かった。
4世紀半ばから元の時代まで、およそ千年にわたり石窟が掘り続けられた。生きて帰ることが容易ではない危険で果てしないシルクロードへの旅の安全祈願や無事に砂漠を乗り越えてこの地に辿り着いたことへの感謝を込めて作成されたもので、すべてが寄進によってなされたという。金持ちほど大きな石窟を寄進したと説明された。
石窟内は撮影禁止なのが残念だった(以下の大仏と仏画は絵葉書をコピーしたものだ)。
これまで写真で見ると壁画に描かれた多くの仏画の顔が黒いのは黒人が描かれているためだとずっと思ってきたが、これは顔料に鉛が含まれていて黒変したことによることを初めて知った。






世界自然遺産である鳴沙山・月牙泉、張掖七彩丹霞や奇岩の連なる自然公園・氷溝丹霞については、事前に学習していなくてまったく知らなかった。現地で添乗員とガイドの説明で初めて知った。どこも大自然の織りなす奇景で、面白かった。






丹霞の丹も霞も、赤や朱を表すとのことだった。七彩丹霞は赤、黄、白、灰色、焦茶などの多彩な色を呈する地層が波打ち、自然の景観をなしていた。大変な混雑で、最近人気の中国でも有数の観光地だそうだ(世界自然遺産)。氷溝丹霞(ひょうこうたんか)の氷の表記は中国では「にすい」に水と書いた漢字が当てられていた。ヒョウは水を表し、溝は字のごとくで、水に削られてできた地形を表すそうだ。中国のモニュメント・バレーと言われているらしい。こちらの遊歩道はガラガラだった。




漢詩にしばしば詠われている玉門関や漢長城の訪問も感慨深いものがあった。
玉門関の展望台ではすぐ目の前を鹿の親子が歩いているのが見えた。
漢の長城は紀元前2世紀はじめに前漢の武帝が築いた長城の一部で、玉門漢の西方から疎勒河の南岸に沿って、彷徨(さまよ)える湖として有名なロプノールの近隣にあったオアシス都市、楼蘭まで延々と築かれていた。




あまり期待していなかったものに中華料理があった。この予想ははずれて、連日の食事はとても美味だった。
住まいのある横浜には世界最大の中華街があり、近いので頻繁に出かけて、広東料理、上海料理、四川料理、北京料理、関東料理など、折に触れて食している。以前に麗江や武陵源を訪ねた旅行の際に食べた中華料理には、特に感激しなかった。それ以来、ずっと横浜の中華料理が世界で一番うまいと思ってきた。今回、口にした中国西域の中華料理はどちらかと言えば、四川料理に近かったが、ホテルや町中のレストランで食べた料理はどれもたいへん美味しかった。肉料理も毎回出たけれど、野菜の炒めものが中心で、食べやすく、飽きのこない味付けだった。スープは初めて経験する独特な味付けが多かった。ずっと満腹になるまで食べ続けたが、胃も痛くならなかったし、お腹も壊さなかった。


米よりも小麦の産地で、具のない饅頭や様々な形に加工された麺が主に食べられている。特に麺類はこの地の名物・ソウルフードだそうだ。
敦煌ではこの地方の郷土料理であるロバの肉は初めて食べたが、まったく違和感を感じなかったし、美味だった(敦煌の夜市では露天でロバや羊の頭がそのままの形で売っていたのにはちょっとびっくりしたけれど)。ただし鯉料理だけは泥臭くて不味かった。

おかげで短い旅行にもかかわらずすっかり体重が増えてしまい、ズボンのボタンがかからなくなってしまった。

酷暑の真只中でツアー客の一人が敦煌莫高窟の観光中に熱中症で気を失って倒れるハプニングがあったけれど、大事に至らず全員無事帰国できたてよかった。もし健康状態と体力が維持されて、また旅行資金を貯めることができたら、ぜひこの先に広がるタクラマカン砂漠を越えて、さらにさきへと続くシルクロードを旅してみたいと思う。なかなか難しい課題かもしれないが。