
〈三日月夜の蠍座:右端は月〉
人生を彩る道楽のなかで一番の贅沢は旅に出ることである。
八月半ば、お盆休みを控えた今年最後の夏休みは小笠原諸島父島に行くことにした。父島には51年ぶりの訪問になる。大東亜戦争敗戦によってアメリカ合衆国に接収されたこの島々は1968年6月に日本に返還された。初めてこの島を訪れたのはその7年後の1975年夏だった。当時は本土と小笠原村父島を結ぶ船は2616トンの小さな父島丸だった。波静かな東京湾から太平洋に出ると小さな船体は荒波に揉まれて大きく揺れ、最下層の船倉に近い二等船室の大広間で横になったまま揺られた38時間の船旅では酷い船酔いで苦しんだ記憶がある。

現在では当時の三倍以上の大きな船体となった三代目おがさわら丸11035トン(乗客定員894人)が瀟洒な白塗りの船体を輝かせて東京と小笠原諸島父島二見港を24時間で結ぶ。空港のない小笠原諸島は船舶だけが本州と島を結ぶ唯一の交通手段となっている。今回、8月11日午前11時定刻に東京竹芝桟橋を出帆した船は、レインボーブリッジを過ぎて東京湾から太平洋に出るとゆっくり、ゆったりと揺れた。大型の台風15号が近くを通過した後で、この台風はこのあと関東地方を直撃し千葉県に死傷者が出るほどの大量の雨を降らせ大災害をもたらした。雨台風が熱帯低気圧になった後も太平洋には余波が残り、緩やかなうねりを伴う紺碧の海に白波を残しながら船は時速およそ40キロメートルで洋上を滑るように進んだ。翌日、天気は朝から快晴。小刻みな振動を続ける甲板から見える四方は大海原と水平線だけだった。
出帆から20時間以上が過ぎて、海の色が一段と濃くなった。強い陽射しの中、ボニンブルーBonin blueと呼ばれる紺碧の海の果てに勇ましく立ち上る入道雲が見えた。やがて水平線上に浮かぶ荒ぶる雲の足元にうっすらと島影が見えてきた。父島のすぐそばの兄島の姿だった。船に寄り添い船脚を競うように、次々とカツオドリが飛来した。まるで遠来の客の到着を祝うための出迎え儀式のようだった。8月12日11時20分に父島二見港に到着した。定刻より20分遅れの接岸だった。






おがさわら丸は、この後すぐに出港する父島と母島を結ぶ定期船、母島丸と縦列するように二見港に接岸した。母島丸はおがさわら丸に比べると二回り小ぶりで、2時間かけて母島に至る連絡船だ。今回は父島滞在が最大の目的なので、二見港で下船した。生きているうちにもう一度、島の中を歩いてみたいと思っていた永年の夢が叶う。まる一日の船旅の末、その夢の目的地にようやく着いた。これで船酔いの心配から解放された。今回は父島でただ、ただのんびり過ごすのが旅の目的だった。
大小三十余りの島々からなる小笠原諸島は父島に二千数百人、母島におよそ四百人が暮らす。他の島には定住者はいない。東京からおよそ千キロメートルの距離にある亜熱帯の島々の、すぐ近くには太平洋戦争末期に凄惨な玉砕の地となった硫黄島がある。



半世紀ぶりにたどり着いた南海の孤島は記憶に残る以前の姿とは全く違っていた。五十年の歳月はとてつもない長さだと身をもって感じた。立派な客船ターミナルや港を飾る鯨を形どった大きなモニュメント、整然と並ぶ緑濃い街路樹と舗装されたメインストリート。道沿いには小綺麗な店舗が並ぶ。島内には空と海をイメージした青く彩色された村営の小型バスが走り、世界自然遺産登録を記念して建てられた世界自然遺産センターや遥かな海を越えて来島した渡航者をもてなすための綺麗に手入れされた芝生公園と整然としたビジターセンター、海亀産卵地でもある桟橋に続く整備された白砂の大村海岸、見るもの全てが記憶と違う。ここらには貧相な桟橋があって、手付かずの海辺近くには高床敷の白塗りの診療所があったはずだ。微かな記憶を頼りに港から西に向かって十分ほど歩くと聖ジョージ教会が昔の姿のままで静かに佇んでいた。ここだけはかつての懐かしい姿をとどめている。やはりここは五十年余り昔に訪れた父島に違いなかった。



前回訪問した際にはこの教会のすぐ脇の旅館ふたみ(民宿か?)に宿泊した。今では同じ名前の旅館はなかった。同じ場所に現在は別の名称の宿泊施設が建っていた。west(ウエスト)という名前の旅館だ。所在が港の西側の西町(にしまち)にあるからの命名だろう。滞在中の前半は予約が取れず別の民宿に泊まり、旅の後半は二食付きのこの施設にお世話になった。

村役場のある父島客船ターミナル周辺の集落

大神山頂上から見た二見漁港と奥村地区
旅の前半に泊めてもらった民宿たつみは港に繋がる歩行者専用のトンネルを抜けて歩いて20分ほどの場所にあった。このトンネルは昔のメインストリートだったはずだ。今は海岸側が埋め立てられて新しい道ができている。「奥村」と書かれたバス停留所の前の屋上のある建物が予約した民宿だった。朝食のみが付いている。誰でも使うことができる冷蔵庫や電子レンジに電気ポットが備え付けで、炊事場はないが簡単な食事を作るには困らないよう配慮されていた。この備品は大変に重宝した。
滞在中はずっと晴天に恵まれた。連日とも午前中は美しい海岸に行き、心地よい海風に吹かれて過ごした。小港海岸、コペペ海岸、扇浦海岸、沈船の残る境浦、宮乃浜、どこも美しい海岸と透明で青く澄む海に臨む。


ハマユウガオの咲く小港海岸、広々とした白い砂浜がひときわ美しい。


ヤドカリ〈ムラサキオカヤドカリ〉がゆったりと歩くコペペ海岸、南太平洋のギルバート諸島の先住民「コペペ」が住んでいたことに因んでこの名前がある。小港海岸から丘を越えて歩いて往復一時間の場所だった。

遠浅の扇浦海岸、近くに小笠原神社やかつての住民が残した古い筆塚がある。昔はこの辺りが開墾の中心地だったことを偲ばせる。

アメリカ軍の魚雷を受けて沈没した貨物船「濱江丸」がすぐ目の前に見える境浦、五十年前は船体全体が海面から出ていた。現在は穏やかな天国を思わせる平和なこの島もかつては血みどろの戦場の最前線であったことを語る時代の記念碑だ。今では朽ちた船体は大方が水中に沈み、南海の色鮮やかな魚たちが群れる魚礁となっている。世界のあちこちで不穏な戦争を繰り返す愚かで懲りない人類に平和で平穏な日々を送ることのできる明るい未来が来ることを心から祈らずには居られない。

宮乃浜海岸、波穏やかで波打ち際のほんの10メートルの先に色とりどりの魚が群れになって泳ぐ。シュノーケルリングに持ってこいの浜辺。
夜空が綺麗だった。夜7時を過ぎると満天に星が広がる。無限の銀河が織りなす天の川がまさに乳の道の名にふさわしくぼんやりと輝いて見える。





手持ちでの銀河撮影は難しく振れずにとれた写真はほんの数枚しかなかった。
最も印象的だったのは南の低い空に明るく輝く蠍座だった。宮沢賢治が残した「星めぐりの歌」が暗黒の宇宙から耳に届く様な気がした。この歌に登場する赤い目玉の蠍が手の届くほどの先に鮮明に見える。ひときわ明るい赤い星は一等星のアンタレス。

これまでずっとこの歌で歌われるように赤い星は蠍の目の部分だと思っていたが、それは蠍の背中の真ん中の星だと自分の目で体験して初めて知った。宮沢賢治賢治の類稀な詩才に心が揺さぶられる。今回の父島再訪で最も印象に残ったのは漆黒の空に輝く蠍座の星々だった。星占いで蠍座は自分の誕生星座だ。

父島はアルファベットのCを逆にしたような形をしている。島の西側の上部に人が暮らす。村役場から島中央下部西側の小港海岸まではバスが走るが、逆Cの字の背骨に相当する島の中程には山や丘が連なり、島の南部と東側には道路も人の住む集落もない。丘に登ると360度の視界が得られる。
小笠原諸島はホエール・ウオッチングで有名だ。周辺の海には季節を通してマッコウクジラが生息する。冬から春にかけてはザトウクジラが遠くアラスカ海から子育てのために回遊してくる。天気のいい日に運さえ良ければ、丘の上の展望台から鯨を観察できるという。もっとも夏場のマッコウクジラは父島の南東方向の沖合10キロメートルあたりが生息地なので余程運が良くなければ島から直接眺めるのは難しいようだ。


鯨見物ができる父島北端の三日月山展望台からの眺望
小笠原の夏は本州関東圏より涼しい。八月中旬でも最高気温は数℃低い。正午前後を除けば、微かに磯の香りを含む海風や丘から吹き下ろす風で気温に比べて体感は涼しく感じる。

小笠原の食料事情は孤島ゆえに問題が多いと感じた。野菜畑や稲作の水田は歩いた範囲では全く見かけなかった。青いパパイヤや島レモンはそこここで売っているが、生協やスーパーマーケットでも新鮮野菜の販売は量も種類も極めて少ない。おそらく定期船によって本州から送られてくるものがほとんどなのだろう。滞在中に最も困ったのは食事だった。前半の民宿は朝食付きで昼食と夕食は自分で確保しなければならない。後半の旅館では朝夕の食事が食べられたが、昼は食堂を捜すか、弁当やパンを購入しなければならない。

客船ターミナル近くのメインストリート沿いにはレストランや弁当屋が並び、その一本奥の裏町には居酒屋や食堂があるがどこも売り切れや連日予約でいっぱいだった。おまけに不定休の店が多く期待して行ってみても閉まっている店が多かった。テゲテゲの島特有の文化を実感した。特に島を訪れたお盆前後の夏休み期間は全く食事の予約が取れず、売店の棚のパンの種類は少なく、弁当も棚に並ぶ納品直後に売り切れになってしまう。レストランでは開店前に並んでようやく入店しても食事が出てくるまで1時間以上も待たなければならなかった。仕方がないので電子レンジで温めて食べる白米とカップ麺が夕食の日もあった。後半は土地勘もついたので開店と同時にお弁当を手に入れられるようになったけれど、豊かな食事を取れたという満足感はなかった。最も印象に残った料理は青海亀の刺身と煮込み定食だった。特に煮込みは食感も味もとても美味だった。民宿や旅館では毎回魚料理が出た。朝食には定番の鯵の干物、鯖や鮭の切身、夕食には島で獲れたアカハタ(アカバ)の塩焼きやフライ、メアジの塩焼きなどの魚料理が出ていた。朝食の干物や切身はおそらく本州からきた解凍物だし、手料理で出た亜熱帯の地の海で獲れた魚は大味で、どれもイマイチの印象だった。

絶海に浮かぶ小笠原諸島はここだけに生息する固有種や珍しい動植物に溢れている。集落のメインストリート(湾岸道路)の並木には赤い花を付けたホウオウボクが植えてあった。初めて見る花だった。アダンによく似た実をつけたタコノキは島のあちこちに生えていた。日が暮れると宿の窓ガラスの向こうにはどこからかオガサワラヤモリが現れて独特の鳴き声を発して走り回る。野鳥の種類も多い。散歩に途中で固有種のアカガシラカラスバトのつがいを見かけた。オガサワラヒヨドリ、トラツグミなど本州では見かけることのない種もいた。

これまで乱獲や人の手によって持ち込まれた本来はこの島々にはいない動物や生えていなかった植物、人の手を離れて野生化した山羊や家猫などの家畜が島固有の生態系に深刻な影響を与えてきた。以前にこの島に来た時にはあちこちの原野に山羊がたくさんいた。野生化した山羊だ。彼らが固有の植物や天然記念物を食べてしまい多くの草木が絶滅危惧種になり、あるいは絶滅してしまった。野生化した家猫は野猫になって天敵のいない鳥やオガサワラオオコウモリを捕食してしまったため多くの小動物が激減した。またアメリカ軍の統治下時代にはオガサワラオオコウモリが乱獲されて食用肉として一匹5ドルで売られていたという。今では山道に入るとあちこちに野猫捕獲用の籠罠が置いてある。今回の滞在中では一度も山羊を見かけなかった。現在では山羊も野猫も大規模な捕獲作戦が奏効して希少種の保護に効果をあげているそうだ。小笠原固有種の昆虫類を食べてしまう外来種の色鮮やかな緑色をしたトカゲのグリーンアノール(別名アメリカカメレオン)の捕獲罠もあちこちの木の枝に装着されていた。

マダガスカル(上)と父島のアフリカマイマイの貝殻
古い記憶では父島にはあちこちに大きなカタツムリがいたはずだ。今回は全く見かけなかった。アフリカマイマイという大型カタツムリの仲間だ。戦前に島内に持ち込まれ、その後大発生して農作物に被害をもたらし、対策として天敵のオカヒタチオビというカタツムリが導入された。オカヒタチオビはアフリカマイマイではなく、固有種のカタツムリを食べてしまい、島固有の多くのカタツムリが絶滅してしまったらしい。しかし、1980年代の中頃にアフリカマイマイの数が突然減りだしたそうだ。その理由のひとつに、別の天敵のコウガイヒルがどこからか侵入してアフリカマイマイを食べてしまい、増加が抑えられたらしい。アフリカマイマイは今でも父島の一部の地域のみで生息しているけれど、母島にはまだたくさんいるらしい。自然の過酷な循環と摂理を感じる。
涼しい午前中は海遊びをし、午後は昼寝、夕方は散歩で過ごした。大村海岸近くには豊富な資料が整然と展示された小笠原ビジターセンターがある。散歩の途中に夕涼みを兼ねて何度も立ち寄った。ここでたくさんの動画を観せてもらった。歴史や動植物などのなかなか知ることのできないこの島に関する貴重な知識を得ることが出来た。この島々の名前である「小笠原」は江戸時代の偽書に書かれた「小笠原島」の名称に由来する。十六世紀末(1593年)に無人島を発見し徳川家康から領有を認められたされる信濃国の武士「小笠原貞頼」の子孫を名乗る小笠原貞任が1727年に島への渡航求めて徳川幕府に申請した書に書かれた偽の記載が起源という。夜には水生動物の学術講演会(難しかった)や目の前のお祭り広場では星の観望会もあって退屈する暇はなかった。

楽しい日々はあっという間に過ぎてゆく。帰帆は8月19日午後15時二見港出港のおがさわら丸に乗った。波は静かで全く揺れなかった。船は翌20日午後に東京湾に入った。海難事故防止のために船の速度は毎時20キロメートルに半減され、ゆっくりと東京湾横断道路アクアラインの脇を通った。さざ波の立つ海の色に愕然となった。ドス黒く土色に濁っている。この湾で獲れた江戸前の魚貝を食べて本当に健康に害はなのかと心底から不安になった。東京竹芝桟橋には定刻の15時ぴったりに着岸した。巨大なビルの建ち並ぶ東京はむせ返る蒸し暑さだった。