詩片_その3

音

 

いつからか

音がする

 

坂を登り

坂を下り

 

角を曲がり

階段を下る

 

朝も昼も

夕も

 

コツコツと

追ってくる音

 

振り向けば

誰もいない

 

誰だろう

無口になって

 

耳を澄まして

乾いた音を聞く

 

立ち止まって

音を待ちたいが

 

月の照る夜なら

音の主(ぬし)に会えるだろうか

 

せめて一度でも肩を抱いて

君と一緒に踊りたい

 

 

雪の花

 

空が高く

峰々は青く

 

美しい新緑の里に

僕らはあった

 

ある遅い春の日

季節外れの暗い宙空から

 

きらきらと輝く

雪の花が落ちてきた

 

日の当たる方丈に暮らし

十分に満足に生きてきた

 

それでも消えてゆく

雪の花を

 

手に取って見ていたいと

心から願っていた

 

光と風と

冷気の仕業だけなのか

 

知りたい

思いがすべてだった

 

 

シルバーウイーク

秋に連休があってそれをシルバーウイークということを今月はじめに初めて知った。5月の連休がゴールデンウィークなので秋はシルバーなのか、敬老の日が絡むのでシルバーなのか。今年は月曜日の敬老の日と水曜日の秋分の日に国民の休日が付加されて9月19日の土曜日から5連休になっている。飛び石の休日に国民の休日なるものが加えられて連休になる制度は、いったいいつからあるのだろう。それとは無関係に今年は9月中旬にぽっかり仕事や予定のない日があったので、宿の予約が解禁された2月の下旬には9月の半ばに5泊6日の予定で秋田の定宿乳頭温泉郷黒湯に予約をとっておいた。予定通り、まだ秋雨前線が停滞して長雨の続く中、東北地方を縦断してのんびり湯治に行ってきた。

9月16日の未明に自宅を出て、いつものように東北自動車道をひたすら北上した。仙台までは雨が降り続いたが、盛岡が近づくと青空が時々見えた。実は7月下旬にも秋田に来ているのだが、天候に恵まれなかった。今回も直前の天気予報では青空は望めず、まったく期待はしていなかったけれど、なんとか雨が上がり雲が切れた。これだけ人工知能AIが人類を滅ぼすのではないかと騒ぎになっている現在でも、天気予報はしばしば当たらない。あるいは悪く予報しておいた方が仮に外れても被害が少ないからというAI による高度な深慮遠謀の末、わざと外しているのかもしれないとへそ曲がりの天邪鬼は深読みしたくなる。まあ、なんでも未来のことが分かってしまっては人生面白くないに違いない。科学は常に事後になってはじめて真実を明らかにする。予測が外れてこそ科学は進歩するのだ。今、発展途上の人工知能が人間社会に危害を加えることが危惧されている。暴走や危険を承知で精度と安全性を向上させさえすれば、人類に貢献することは間違いないだろう。まだほんの過渡期に過ぎないのだ。もっとも、地球上で最も凶暴で危険で邪悪な存在は人類であることはおそらく永遠の真理に違いないだろう。こればかりはうつ手がない。

雨が上がったので八幡平に寄り道して初秋の湿原を見て行くことにした。この時期に来るのは初めてだ。静かな八幡平は予想以上に錦繍が進んでいた。草紅葉はまさに見頃だった。見返り峠の駐車場に車を停めて、およそ1時間半余りのトレッキングはとても気持ちが良かった。

乳頭温泉郷黒湯には16時半に着いた。いつもどおりの自炊棟の角部屋はほとんど我が家の感覚。初日は持参の羊肉でジンギスカンを食べた。長旅の疲れも温泉に浸かるとすぐに取れて快眠できた。

2日目は朝から快晴。まさかの登山日和になった。すっかり運動不足で脚力や呼吸機能も衰えてしまっているけれど、きっとこの快晴はそんな衰えた肉体を鍛えるように、という神の思召しに違いない。

黒湯の裏がすぐ登山口になっている乳頭山(烏帽子岳)に登るつもりで出発すると登山口を示す柱に途中の橋が崩落していて通行止めの表示が貼ってあった。宿に戻り顔馴染みの湯守のお爺さん(ほぼ同年代)に聞くとずっと通行止めが続いていて孫六温泉からのコースしか行けないと教えてもらった。雨上がりの孫六コースは悪路の急登が続く。以前に一度だけ下りに使ったことがあって難儀をした経験がある。行き先を変更して秋田駒ケ岳に登ることにした。これが大正解だった。

ハイシーズンを終えた平日なので八合目まで車が入ることができた。

秋田駒ケ岳には何度も登っているが頂上に立つのは今回が二度目。登山道整備の作業員にこんな天気に恵まれることは年に何度もない、幸運だと言われた。

ムーミン谷を覆うチングルマの葉はまだ緑のままだった。道沿いのナナカマドには赤い実がたくさん。四季折々に多彩な姿を見せる秋田駒ケ岳の紅葉は今年は少し先だった。駒草が咲き残って去り行く夏を惜しむようだった。横岳から焼森を巡るいつもの周遊コースを歩き八合目に戻った。宿に戻り、露天風呂で汗を流し夕食は秋田の地酒で名物きりたんぽ鍋を食べた。

三日目はまったりと休息日、温泉三昧で過ごした。この日は偶然、黒湯の守り神、薬師神社の祭礼の日だった。神主さんが宿舎を回り、お祓いをしてくれる。我が家もせっかくなので祓っていただいた。おまけに記念の紅白饅頭までいただいてしまった。これでしばらくは無病息災間違いなし。夕食はレトルトカレーを食べた。

四日目も朝は雨だったけれど、だんだんと青空が広がって道の駅巡りに出かけた。角館駅を経て岩城町の道の駅に行く。ここで秋の秋田旅行のもう一つの目的である青いイチジクとプルーンを購入した。イチジクはコンポートに、プルーンはジャムにする。これでトレッキングと買い物の二つの目的は達成だった。この日は秋田県の北半分を一周したことになる。夕食はナポリタンだった。

五日目、日本の遥か南で発生した台風25号が発達している。関東から東北地方にかけてこのあと豪雨が予想されている。一日早く切り上げて帰るかどうか、迷ったけれど当初の予想より台風の足取りが遅い。予定通り五泊し台風の動向を見ながらどこかでもう一泊するか、あるいは帰路を別経路に変更するかにして、日がな一日、落語を聴いたり、読書と温泉三昧で過ごした。夕食は玉子丼。久しぶりに食べた玉子丼は美味かった。

5日目から6日目にかけての深夜、台風の接近に伴って関東から東北南部にかけて激しい雨を伴う線状降水帯が発生すると予想が出た。どうも東北地方には日中からの豪雨、関東には洪水や土砂災害は夜のはじめ以降になるらしい。6日目の朝5時半に宿を出た。日本海に沿って秋田を周り日本海東北道を南下した。海を眺めながら北陸道を経て長岡から関越自動車道に入り圏央道を通って東名高速道路に出て帰宅した。途中圏央道に乗る前まではせいぜい霧雨程度の雨模様だったが、その後は雨足が急に強くなり、車のワイパーを高速運転にして慎重に運転して帰ってきた。自宅には17時に着いた。帰宅後夜になって関東地方には土砂災害が発生した。テレビでは鎌倉が水浸しのニュースを流していた。

台風一過、今朝は快晴だ。お土産の青イチジクとプルーンを煮て過ごした。我が家ではプルーンがジャムの一番人気。イチジクのコンポートは年に一度の贅沢デザートです。

 

秋雨と青虫

酷暑の8月が終わると一転、日本各地で深刻な水害を起こしながら激しい秋雨豪雨が続いている。

雨の中を傘を刺して散歩に行くほどの意欲がなくて、日がな一日家でゴロゴロしてまったく運動不足の日々だ。

先日、まだ暑い最中の8月25日、寝転がって外を見ていたら、一羽のクロアゲハがひらひらとベランダに飛んで来てプランターの文旦の葉に卵を産みつけてどこかに行ってしまった。

連日朝夕と観察を続けていたら、その卵が孵化して幼虫になって葉っぱを食べ、とうとう昨日青虫になった。ここまで育ったからぜひ蝶になって大空に羽ばたいて欲しい。脱皮するところを見たかったが気がつくと変態していた。

最近読んだ本で面白かったのは恐竜学者の自叙伝。日本に恐竜研究の発展のきっかけを作った福井県出身の著者が日本を代表する恐竜学者になるまでを綴った半生記だ。文章が上手い。孫のヘーちゃんにも勧めたら一気に読んだと返事が来た。

宇宙が誕生して138億年、地球が生まれて46億年、さまさまな生き物が生まれ、滅びて、また新たな生命が生まれて消えていった。すでに化石でしか知ることのできない巨大な恐竜も鳥となって命を繋ぎ、米粒の半分にも満たない卵からは擬態しながら成体の蝶になる生命の不思議がある。新参者の人類は未だに殺し合いの戦争と侵略を繰り返している。進歩とは何か、進化とは何か、雨が降る空を見上げて考えてもわからないことばかり。

昼寝も読書も思索も飽きて、昨日の午後は近所の文化ホールにクラッシック音楽を聴きに行った。ほんの一瞬の出来事でしかないけれど、幸せな時間を過ごすことができた。瞬時に消えて行くピアノや弦楽器の調べ。音楽は人類が作り出した美しい抽象の極みだろう。

手の中の小さな空間も耳から心に届くほんの一瞬の光悦も永遠のひとかけら。有限という名前の無限の連続の姿。

 

父島に蠍座を観に行った:小笠原村父島再訪の記

〈三日月夜の蠍座:右端は月〉

人生を彩る道楽のなかで一番の贅沢は旅に出ることである。

八月半ば、お盆休みを控えた今年最後の夏休みは小笠原諸島父島に行くことにした。父島には51年ぶりの訪問になる。大東亜戦争敗戦によってアメリカ合衆国に接収されたこの島々は1968年6月に日本に返還された。初めてこの島を訪れたのはその7年後の1975年夏だった。当時は本土と小笠原村父島を結ぶ船は2616トンの小さな父島丸だった。波静かな東京湾から太平洋に出ると小さな船体は荒波に揉まれて大きく揺れ、最下層の船倉に近い二等船室の大広間で横になったまま揺られた38時間の船旅では酷い船酔いで苦しんだ記憶がある。

現在では当時の三倍以上の大きな船体となった三代目おがさわら丸11035トン(乗客定員894人)が瀟洒な白塗りの船体を輝かせて東京と小笠原諸島父島二見港を24時間で結ぶ。空港のない小笠原諸島は船舶だけが本州と島を結ぶ唯一の交通手段となっている。今回、8月11日午前11時定刻に東京竹芝桟橋を出帆した船は、レインボーブリッジを過ぎて東京湾から太平洋に出るとゆっくり、ゆったりと揺れた。大型の台風15号が近くを通過した後で、この台風はこのあと関東地方を直撃し千葉県に死傷者が出るほどの大量の雨を降らせ大災害をもたらした。雨台風が熱帯低気圧になった後も太平洋には余波が残り、緩やかなうねりを伴う紺碧の海に白波を残しながら船は時速およそ40キロメートルで洋上を滑るように進んだ。翌日、天気は朝から快晴。小刻みな振動を続ける甲板から見える四方は大海原と水平線だけだった。

出帆から20時間以上が過ぎて、海の色が一段と濃くなった。強い陽射しの中、ボニンブルーBonin blueと呼ばれる紺碧の海の果てに勇ましく立ち上る入道雲が見えた。やがて水平線上に浮かぶ荒ぶる雲の足元にうっすらと島影が見えてきた。父島のすぐそばの兄島の姿だった。船に寄り添い船脚を競うように、次々とカツオドリが飛来した。まるで遠来の客の到着を祝うための出迎え儀式のようだった。8月12日11時20分に父島二見港に到着した。定刻より20分遅れの接岸だった。

おがさわら丸は、この後すぐに出港する父島と母島を結ぶ定期船、母島丸と縦列するように二見港に接岸した。母島丸はおがさわら丸に比べると二回り小ぶりで、2時間かけて母島に至る連絡船だ。今回は父島滞在が最大の目的なので、二見港で下船した。生きているうちにもう一度、島の中を歩いてみたいと思っていた永年の夢が叶う。まる一日の船旅の末、その夢の目的地にようやく着いた。これで船酔いの心配から解放された。今回は父島でただ、ただのんびり過ごすのが旅の目的だった。

大小三十余りの島々からなる小笠原諸島は父島に二千数百人、母島におよそ四百人が暮らす。他の島には定住者はいない。東京からおよそ千キロメートルの距離にある亜熱帯の島々の、すぐ近くには太平洋戦争末期に凄惨な玉砕の地となった硫黄島がある。

半世紀ぶりにたどり着いた南海の孤島は記憶に残る以前の姿とは全く違っていた。五十年の歳月はとてつもない長さだと身をもって感じた。立派な客船ターミナルや港を飾る鯨を形どった大きなモニュメント、整然と並ぶ緑濃い街路樹と舗装されたメインストリート。道沿いには小綺麗な店舗が並ぶ。島内には空と海をイメージした青く彩色された村営の小型バスが走り、世界自然遺産登録を記念して建てられた世界自然遺産センターや遥かな海を越えて来島した渡航者をもてなすための綺麗に手入れされた芝生公園と整然としたビジターセンター、海亀産卵地でもある桟橋に続く整備された白砂の大村海岸、見るもの全てが記憶と違う。ここらには貧相な桟橋があって、手付かずの海辺近くには高床敷の白塗りの診療所があったはずだ。微かな記憶を頼りに港から西に向かって十分ほど歩くと聖ジョージ教会が昔の姿のままで静かに佇んでいた。ここだけはかつての懐かしい姿をとどめている。やはりここは五十年余り昔に訪れた父島に違いなかった。

前回訪問した際にはこの教会のすぐ脇の旅館ふたみ(民宿か?)に宿泊した。今では同じ名前の旅館はなかった。同じ場所に現在は別の名称の宿泊施設が建っていた。west(ウエスト)という名前の旅館だ。所在が港の西側の西町(にしまち)にあるからの命名だろう。滞在中の前半は予約が取れず別の民宿に泊まり、旅の後半は二食付きのこの施設にお世話になった。

村役場のある父島客船ターミナル周辺の集落

大神山頂上から見た二見漁港と奥村地区

旅の前半に泊めてもらった民宿たつみは港に繋がる歩行者専用のトンネルを抜けて歩いて20分ほどの場所にあった。このトンネルは昔のメインストリートだったはずだ。今は海岸側が埋め立てられて新しい道ができている。「奥村」と書かれたバス停留所の前の屋上のある建物が予約した民宿だった。朝食のみが付いている。誰でも使うことができる冷蔵庫や電子レンジに電気ポットが備え付けで、炊事場はないが簡単な食事を作るには困らないよう配慮されていた。この備品は大変に重宝した。

滞在中はずっと晴天に恵まれた。連日とも午前中は美しい海岸に行き、心地よい海風に吹かれて過ごした。小港海岸、コペペ海岸、扇浦海岸、沈船の残る境浦、宮乃浜、どこも美しい海岸と透明で青く澄む海に臨む。

ハマユウガオの咲く小港海岸、広々とした白い砂浜がひときわ美しい。

ヤドカリ〈ムラサキオカヤドカリ〉がゆったりと歩くコペペ海岸、南太平洋のギルバート諸島の先住民「コペペ」が住んでいたことに因んでこの名前がある。小港海岸から丘を越えて歩いて往復一時間の場所だった。

遠浅の扇浦海岸、近くに小笠原神社やかつての住民が残した古い筆塚がある。昔はこの辺りが開墾の中心地だったことを偲ばせる。

アメリカ軍の魚雷を受けて沈没した貨物船「濱江丸」がすぐ目の前に見える境浦、五十年前は船体全体が海面から出ていた。現在は穏やかな天国を思わせる平和なこの島もかつては血みどろの戦場の最前線であったことを語る時代の記念碑だ。今では朽ちた船体は大方が水中に沈み、南海の色鮮やかな魚たちが群れる魚礁となっている。世界のあちこちで不穏な戦争を繰り返す愚かで懲りない人類に平和で平穏な日々を送ることのできる明るい未来が来ることを心から祈らずには居られない。

宮乃浜海岸、波穏やかで波打ち際のほんの10メートルの先に色とりどりの魚が群れになって泳ぐ。シュノーケルリングに持ってこいの浜辺。

夜空が綺麗だった。夜7時を過ぎると満天に星が広がる。無限の銀河が織りなす天の川がまさに乳の道の名にふさわしくぼんやりと輝いて見える。
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手持ちでの銀河撮影は難しく振れずにとれた写真はほんの数枚しかなかった。

最も印象的だったのは南の低い空に明るく輝く蠍座だった。宮沢賢治が残した「星めぐりの歌」が暗黒の宇宙から耳に届く様な気がした。この歌に登場する赤い目玉の蠍が手の届くほどの先に鮮明に見える。ひときわ明るい赤い星は一等星のアンタレス。

これまでずっとこの歌で歌われるように赤い星は蠍の目の部分だと思っていたが、それは蠍の背中の真ん中の星だと自分の目で体験して初めて知った。宮沢賢治賢治の類稀な詩才に心が揺さぶられる。今回の父島再訪で最も印象に残ったのは漆黒の空に輝く蠍座の星々だった。星占いで蠍座は自分の誕生星座だ。

父島はアルファベットのCを逆にしたような形をしている。島の西側の上部に人が暮らす。村役場から島中央下部西側の小港海岸まではバスが走るが、逆Cの字の背骨に相当する島の中程には山や丘が連なり、島の南部と東側には道路も人の住む集落もない。丘に登ると360度の視界が得られる。

小笠原諸島はホエール・ウオッチングで有名だ。周辺の海には季節を通してマッコウクジラが生息する。冬から春にかけてはザトウクジラが遠くアラスカ海から子育てのために回遊してくる。天気のいい日に運さえ良ければ、丘の上の展望台から鯨を観察できるという。もっとも夏場のマッコウクジラは父島の南東方向の沖合10キロメートルあたりが生息地なので余程運が良くなければ島から直接眺めるのは難しいようだ。

鯨見物ができる父島北端の三日月山展望台からの眺望

小笠原の夏は本州関東圏より涼しい。八月中旬でも最高気温は数℃低い。正午前後を除けば、微かに磯の香りを含む海風や丘から吹き下ろす風で気温に比べて体感は涼しく感じる。

小笠原の食料事情は孤島ゆえに問題が多いと感じた。野菜畑や稲作の水田は歩いた範囲では全く見かけなかった。青いパパイヤや島レモンはそこここで売っているが、生協やスーパーマーケットでも新鮮野菜の販売は量も種類も極めて少ない。おそらく定期船によって本州から送られてくるものがほとんどなのだろう。滞在中に最も困ったのは食事だった。前半の民宿は朝食付きで昼食と夕食は自分で確保しなければならない。後半の旅館では朝夕の食事が食べられたが、昼は食堂を捜すか、弁当やパンを購入しなければならない。

客船ターミナル近くのメインストリート沿いにはレストランや弁当屋が並び、その一本奥の裏町には居酒屋や食堂があるがどこも売り切れや連日予約でいっぱいだった。おまけに不定休の店が多く期待して行ってみても閉まっている店が多かった。テゲテゲの島特有の文化を実感した。特に島を訪れたお盆前後の夏休み期間は全く食事の予約が取れず、売店の棚のパンの種類は少なく、弁当も棚に並ぶ納品直後に売り切れになってしまう。レストランでは開店前に並んでようやく入店しても食事が出てくるまで1時間以上も待たなければならなかった。仕方がないので電子レンジで温めて食べる白米とカップ麺が夕食の日もあった。後半は土地勘もついたので開店と同時にお弁当を手に入れられるようになったけれど、豊かな食事を取れたという満足感はなかった。最も印象に残った料理は青海亀の刺身と煮込み定食だった。特に煮込みは食感も味もとても美味だった。民宿や旅館では毎回魚料理が出た。朝食には定番の鯵の干物、鯖や鮭の切身、夕食には島で獲れたアカハタ(アカバ)の塩焼きやフライ、メアジの塩焼きなどの魚料理が出ていた。朝食の干物や切身はおそらく本州からきた解凍物だし、手料理で出た亜熱帯の地の海で獲れた魚は大味で、どれもイマイチの印象だった。

絶海に浮かぶ小笠原諸島はここだけに生息する固有種や珍しい動植物に溢れている。集落のメインストリート(湾岸道路)の並木には赤い花を付けたホウオウボクが植えてあった。初めて見る花だった。アダンによく似た実をつけたタコノキは島のあちこちに生えていた。日が暮れると宿の窓ガラスの向こうにはどこからかオガサワラヤモリが現れて独特の鳴き声を発して走り回る。野鳥の種類も多い。散歩に途中で固有種のアカガシラカラスバトのつがいを見かけた。オガサワラヒヨドリ、トラツグミなど本州では見かけることのない種もいた。

これまで乱獲や人の手によって持ち込まれた本来はこの島々にはいない動物や生えていなかった植物、人の手を離れて野生化した山羊や家猫などの家畜が島固有の生態系に深刻な影響を与えてきた。以前にこの島に来た時にはあちこちの原野に山羊がたくさんいた。野生化した山羊だ。彼らが固有の植物や天然記念物を食べてしまい多くの草木が絶滅危惧種になり、あるいは絶滅してしまった。野生化した家猫は野猫になって天敵のいない鳥やオガサワラオオコウモリを捕食してしまったため多くの小動物が激減した。またアメリカ軍の統治下時代にはオガサワラオオコウモリが乱獲されて食用肉として一匹5ドルで売られていたという。今では山道に入るとあちこちに野猫捕獲用の籠罠が置いてある。今回の滞在中では一度も山羊を見かけなかった。現在では山羊も野猫も大規模な捕獲作戦が奏効して希少種の保護に効果をあげているそうだ。小笠原固有種の昆虫類を食べてしまう外来種の色鮮やかな緑色をしたトカゲのグリーンアノール(別名アメリカカメレオン)の捕獲罠もあちこちの木の枝に装着されていた。

マダガスカル(上)と父島のアフリカマイマイの貝殻

古い記憶では父島にはあちこちに大きなカタツムリがいたはずだ。今回は全く見かけなかった。アフリカマイマイという大型カタツムリの仲間だ。戦前に島内に持ち込まれ、その後大発生して農作物に被害をもたらし、対策として天敵のオカヒタチオビというカタツムリが導入された。オカヒタチオビはアフリカマイマイではなく、固有種のカタツムリを食べてしまい、島固有の多くのカタツムリが絶滅してしまったらしい。しかし、1980年代の中頃にアフリカマイマイの数が突然減りだしたそうだ。その理由のひとつに、別の天敵のコウガイヒルがどこからか侵入してアフリカマイマイを食べてしまい、増加が抑えられたらしい。アフリカマイマイは今でも父島の一部の地域のみで生息しているけれど、母島にはまだたくさんいるらしい。自然の過酷な循環と摂理を感じる。

涼しい午前中は海遊びをし、午後は昼寝、夕方は散歩で過ごした。大村海岸近くには豊富な資料が整然と展示された小笠原ビジターセンターがある。散歩の途中に夕涼みを兼ねて何度も立ち寄った。ここでたくさんの動画を観せてもらった。歴史や動植物などのなかなか知ることのできないこの島に関する貴重な知識を得ることが出来た。この島々の名前である「小笠原」は江戸時代の偽書に書かれた「小笠原島」の名称に由来する。十六世紀末(1593年)に無人島を発見し徳川家康から領有を認められたされる信濃国の武士「小笠原貞頼」の子孫を名乗る小笠原貞任が1727年に島への渡航求めて徳川幕府に申請した書に書かれた偽の記載が起源という。夜には水生動物の学術講演会(難しかった)や目の前のお祭り広場では星の観望会もあって退屈する暇はなかった。

楽しい日々はあっという間に過ぎてゆく。帰帆は8月19日午後15時二見港出港のおがさわら丸に乗った。波は静かで全く揺れなかった。船は翌20日午後に東京湾に入った。海難事故防止のために船の速度は毎時20キロメートルに半減され、ゆっくりと東京湾横断道路アクアラインの脇を通った。さざ波の立つ海の色に愕然となった。ドス黒く土色に濁っている。この湾で獲れた江戸前の魚貝を食べて本当に健康に害はなのかと心底から不安になった。東京竹芝桟橋には定刻の15時ぴったりに着岸した。巨大なビルの建ち並ぶ東京はむせ返る蒸し暑さだった。

 

ミニトマトジャムを作ってみた

先日ブルーベリーを送っていただいたばかりのAY 氏から今度は自家製ミニトマトを送っていただいた。トマトジャムにどうぞ、というお薦めだった。でもそのまま食べてみると味が濃厚でとっても美味。ジャムにする前にむしゃむしゃ食べてしまった。

おすすめなので残りはジャムにした。トマトジャムの製作は初めてだ。ヘタを取り水洗いして湯煎して皮を剥き、砂糖を合わせてしばらく置いて煮詰める。湯剥きしたミニトマトはまるで葡萄の粒のよう。緑も赤も黄色も美しい。

湯煎する前は650gあったミニトマトは皮を剥くと500gになった。砂糖は100g強にして煮詰める。ネットを見ると種子も美味しいとあったので、できるだけ種子を温存して弱火で煮詰めることおよそ1時間半。レモン汁を加えて完成。

小さめのジャム瓶に二つ弱できた。明日朝の朝食で食べてみたい。

食べるのが楽しみだ。

 

雨の東北温泉弾丸巡り

日本列島は尋常ではない酷暑の季節となり新潟を含む関東以西の地方では耐えがたい日々が続いている。7月28日の夕方、熊本ではまた大震災があった。仕事帰りのJR電車の中でニュースを観て知った。この暑さの中、過酷な救命救援活動が続いている。ひとりでも多くの方が一日も早く助かることを心から祈らずにはいられない。救護する方々の、過酷な条件のなか昼夜を分かたぬ命がけの活動に頭が下がる。来週はもう立秋だが、8月を迎えても本州北側の東北地方では梅雨前線が停滞して未だに梅雨が明けない。

ともかく、どこでもいいので関東の烈暑を逃れて涼しいところに数日でも避難したいと思い、長野の山中にキャンプに行くか、雨を承知で東北の温泉旅に行こうかと仕事中に思案していると、いつも行っている秋田の乳頭温泉黒湯の自炊棟が空いていると妻から連絡があった。2泊しかとれないので他を探すと黒湯に近い玉川温泉の自炊棟も空いているそうだ。天気予報では東北地方はずっと雨。最高気温も25℃以下の予報だった。ひょっとしたら予報が外れることもあるかもしれない。ままよ、東北に弾丸納涼温泉三泊四日旅行に行こうと決めた。

7月29日の朝3時に起床。前夜におにぎりを作ってもらい早起きは得意中の得意3時40分に出発。まず玉川温泉に向かうことにした。途中可能なら八幡平を散策したい。

玉川温泉はがんに効くと全国的に有名だ。ここははじめて行く温泉だ。がん患者はもちろんのこと、がん発病の予防でラジウム浴をしている方々もいた。

途中盛岡の手前で前が見えない凄まじい豪雨になった。ノロノロと運転して昼過ぎに八幡平に到着。案の定、予報通りの八幡平は濃霧と雨、視界5メートルでとてもトレッキングができる状況ではなかった。

玉川温泉は立派な施設だった。自炊棟にはずらっと個室が並ぶ。大浴場にはいくつも浴槽があった。温泉は強酸性、源泉100%のお湯に浸かると数秒で体のあちこちがピリピリする。目にお湯が入ると激痛だ。

一周約1キロくらいの遊歩道になっている源泉近くの岩の間には地熱を利用した岩盤浴の小屋が並ぶ。周囲にはラジウムの放出する場所があって冷たい地面に茣蓙(ござ)を敷き傘を刺して岩盤浴をする人達もいた。見たことのない風景だった。持参のガイガーカウンターで放射能を測って場所を決めているという。

(大浴場の写真はネットから借用,盗撮ではありません)

初日の夕食は持参のカレーを温めて食べた。ここの炊事場には炊飯器が置いてない。有料でレンタルらしい。皿もないので売店で紙皿を買った。黒湯温泉の自炊棟と比べると鍋、釜、レンジとトースターはあるがその他の調理備品は乏しい。夜半、強い雨が降った。

二日目。朝は小雨。宿を9時過ぎに出発して、もう一度八幡平に行ってみたが、濃霧と風で早々と撤退。このあと三日目に秋田駒ヶ岳の避難小屋で一緒になったグループの話では午後から晴れたそうだ。少し時間が早すぎたようだ。諦めて田沢湖に向かう。田沢湖周辺は曇り、秋田駒ヶ岳は雲に覆われて見えない。まだ昼前なので田沢湖駅近くのスーパーマーケット(グランマート田沢湖店)で食材の購入。買ったお弁当をレジ横のカウンターでチンして食べた。便利な世の中になったものだ。ドルだてにすれば日本のちゃんとした弁当でも3ドル相当。インバウンドの観光客にとってはほとんどただみたいに思えるだろう。

少し早いが乳頭温泉黒湯自炊棟に入れてもらった。黒湯にはもう何度も来ている。自炊棟は時間に縛られず自由に過ごせるのが良い。一年ぶりの利用だが、あちこち改装されていた。男湯の露天風呂に新たに打たせ湯が増設されていたし、自炊棟のトイレも変わっていた。炊事場には以前は利用者が置いていった調味料がたくさん残っていたが、今回はすっかり片付けられていた。混浴の露天風呂は改修中で閉鎖していた。

時折激しい雨が降った。二日目はこのまま部屋で沈殿、温泉三昧で過ごした。夕食は持参したジェノベーゼソースでじゃがいもとモロッコインゲン入りのパスタを食べた。

三日目の朝は小雨からだんだんと止んできた。上空は厚い雲に覆われて、もう八幡平トレッキングは諦めて、小雨でも安全に登れる秋田駒ヶ岳に登ることにした。運が良ければ弥陀ケ池周辺にはニッコウキスゲが残っているかもしれない。この時期はマイカー規制で八合目まではアルパこまくさからバスに乗らないといけない(往復1500円)。

小雨は霧雨になり,八合目の小屋から歩き始めると雨は上がり一面のガスになった。登山道の周囲は高山植物が花盛りだ。この山は手軽に登れるけれど花の山だ。歩き始めておよそ1時間で平らな木道に着いた。あたりは一面のガスで視界はおよそ10メートル程度。頂上はまったく霧の中で眺望は期待できない。弥陀ケ池避難小屋で軽食をとって、頂上には登らずに横岳から焼森を通って下りきた。残念ながらもうニッコウキスゲはすっかり終わっていた。

下山後は温泉でまったりする。ここの湯は玉川温泉とは違って肌に優しい。まさに癒しの温泉だ。小雨の中の露天風呂がまた格別に気持ち良い。夕食は定番のナポリタンだった。おそらくナポリタンはこの温泉宿でしか食べることがないソウルフードだ。ずっと朝夕も日中も涼しくて最低気温は17℃、最高気温は22℃で過ごしやすかった。関東に居れば、信じられないほどの涼しさだ。まさに避暑の目的を達成することができた弾丸温泉旅行だ。

四日目は早朝に宿を出ていっさい寄り道せず、高速道路をひた走り、自宅には午後2時半に着いた。途中カーラジオでは走ってきたばかりの秋田地方に大雨警報が出ていることを告げていた。秋田は意外と近い。自宅のベランダに吊るした寒暖計は秋田より15℃の差があった。関東はとてつもなく暑い。

 

映画「大統領のケーキ」を観てきた

暑くて日中の外出はできないので、映画館で涼むことにした。アダム・フセインが独裁者としてイラクを統治していた時代の映画「大統領のケーキ」を朝一番で観に行った。貧しく、救いようのない悲惨な暮らしのなか、健気な少女とペットの雄鶏の日々を描いた映画だ。

歪んだ独裁政治下の荒んだ社会と容赦ないアメリカ軍の攻撃によって傷ついた庶民の辛く厳しい生活と過酷な運命を描いた映画だった。

ポエティックな映画の題名とは裏腹に、観終わって、言葉にしづらい、やり場のない辛さと悲しみが残った映画だった。