詩片_その1

 

 

音もなく

雲がなびき

群青の空を飛ぶ

 

ぼくの未来は

あの雲のように

どこまでも続く

 

もう少しだけ夢を追いかけて

生きてゆけると

信じていた

 

賑やかに笛の音が届き

ぼくの今は

美しい祭りのなかにある

 

 

時間粒子旅行

 

ぼくが生まれたのは

おそらく引力のせいだ

 

あと少しで半月の日に

母の子宮から飛び出した

 

太陽と月とが

ちょうどよい位置にあって

 

ぼくの第一呼吸は

清々しい地球の味がした記憶がある

 

生まれた家は

練兵場に続く坂道の途中にあって

 

緑の三角屋根のそばには

長い松葉の生える木があった

 

玄関にはクリスタルの大きなシャンデリアと

赤い絨毯があって

 

壁には色褪せた

ゴブラン織りのタペストリー

 

洋館の中二階には

こじんまりとした茶室があり

 

古風な塗り壁の部屋と床の間を

百日紅の柱が支えていた

 

懐かしい匂いの土壁からは

時間が粒になって放出されていて

 

この部屋で

ぼくは産声を上げ

 

喜んだ時間粒子は

部屋中を飛び回り

 

小さな金色の流れになって

僕を育てた

 

おかげでぼくは臆病で

人見知りな性格になって

 

薬を飲み忘れると

癲癇発作を起こした

 

吸い込んだ時間の粒は

不可解という種子に変化して

 

やがて

無口な自我へと成長した

 

* * *

 

こども好きの父は

黒塗りのキャディラックも大好きで

 

こどもだけをピカピカの車に乗せて

ネオン輝く銀座に行くのが好きだった

 

三角屋根の洋館は

近所では三国人の奇妙な家と呼ばれて

 

父の夢は生まれ育った南の島の

大統領になることだった

 

腹水に苦しんで父が死んだのは

きっとぼくの愛が足りなかったからだろう

 

繭のような暖かい家を出て

時間粒子を吐きながら

 

ぼくの時空旅行は始まった

母はいつも微笑んでいた

 

 

 

 

 

 

梅雨入り前の鎌倉は花盛り

台風6号が通り過ぎて今日は晴れ間が広がったので、梅雨入り前の鎌倉に散歩に出かけた。本当は今週は高知県四万十市に旧友の小笠原望氏が開かれている川柳塾に参加する目的で高松に棲む友人夫婦と一緒に四万十市を訪ねる予定があったのだが、台風の四国直撃で叶わなかった。まったく残念だった。これまで仕事や登山や旅行で全国津々浦々を訪ねているが、唯一足を踏み入れたいないのが高知県なので、ぜひ行きたかった。なんとかまた機会があることを願っている。

自宅近くのバス停には朝一本だけ鎌倉駅直行のバスが走っている。バスは鎌倉街道を走る。途中、大船駅前を通り、JR横須賀線の踏切を越え、小袋谷から北鎌倉駅、円覚寺、明月院、建長寺前を通って、巨福呂坂のトンネルを抜け、鶴岡八幡宮の前を通って、鎌倉駅に直行する。

今日は建長寺手前の長寿寺前のバス停で降りて、急坂の亀ヶ谷切通を登り、扇谷へ下って行く。お目当ては花の海蔵寺、そのあと化粧坂切通から源氏山に登り、銭洗弁天、佐助稲荷の前を通り、紫陽花の成就院が花めぐりのゴール。

道すがら、道の両側にはたくさんの紫陽花の株が重たげに大きな花房をつけていた。

海蔵寺の山門ではもう赤紫の萩の花が咲いていた。この寺の境内はいつも花が咲いている。今日は花菖蒲が見事だった。

海蔵寺を後に化粧坂切通を登り、「あじさいの小径」を抜けて源氏山の葛原岡神社をへて、銭洗弁天、佐助稲荷の前を通って、由比ガ浜、さらに長谷の裏道を抜けて成就院まで歩いて行った。

一時期、紫陽花の株を全部切り落としてしまった成就院にまた紫陽花の参道が復活している。山門からは鎌倉の海が一望できる。かつてのように観光客が戻ってきている。

海を眺めて気分一新。もう脚が痛くなって歩くのが辛くなっていたが、眺めるだけなのに海には不思議な力があることを実感する。この後、客が行列をなす力餅屋の店先を通り、御霊神社で一休みした。ここも紫陽花の鉢植えが見事だった。すぐ目の前を轟音と共に、力強く江ノ電が走る。

長谷に戻り、御成通りの山助でお昼に海鮮丼とシラス丼を食べて帰ってきた。

爽やかな風に吹かれ、美しい花をみて、美味いものを食べること、至福だね。







悠久の尾瀬ケ原を歩く

至仏山を眺める

年に一度は尾瀬に行きたい。今年も5月29日に歩きに行った。

例年は朝早く(というよりは丑三つ時)に家を出て、日帰りで出かけたが、強行軍は危険だと妻がいうので、尾瀬散策のあと温泉宿に一泊(老神温泉伊東園山楽荘)して帰ってきた。

自宅を5時に出発。戸倉尾瀬第一駐車場には午前9時に到着。着替えして小型バスに乗り換えて鳩待峠には9時40分に着いた。天気は小雨、ときどき曇り。

鳩待峠はすっかり様子が変わっていて、おなじみのお土産屋やバス券売り場、立ち食い蕎麦のあった建物はすっかり除去されていて、こぎれいな星野リゾートの店舗や宿舎だけになっていた。通いなれたおなじみの鳩待峠の姿はもうなかった。

山の鼻への下りをよたよたと降りた。妻はひとりではるか先に行ってしまう。最近めっきり平衡感覚が鈍化して、特に下りはへっぴり腰になってしまう。

霧雨が降る

山の鼻にはいつもどおりおよそ50分で到着。霧雨だった。山荘に以前はたくさんいた燕がいない。巣を作らないように軒下に網を張ってしまったからだろう。途中で猟銃を肩にかけた、おそらく熊対策に出ていた一陣とすれ違った。今年はあちこちで熊の被害が多発していて、観光客が湿原に入る前の熊の探索に出た一団だろう。

水芭蕉はもうピーク

今年は季節が2週間ほど早く進んでいる。5月下旬にすでに水芭蕉のピークを迎えている。もうリュウキンカも咲きだしている。全体に水芭蕉はやや少ない感じがした。

歩いているとだんだんと雨があがり、風が吹いてきた。北風で、寒い。長袖のシャツの上にウインドブレーカーを着込んでもすこし寒さを感じるほどだった。

リュウキンカ

湿原の水も少ないようだ

牛首を過ぎて東電小屋に向かう。いつもの我が家のトレッキングコースだ。途中で持参のおにぎりをほうばる。山の鼻と牛首の間はツアー客で混雑しているが、それを過ぎるとめっきり人が少なくなる。ところどころでワタスゲの穂が開いていた。

静かな湿原を歩く

昼が近づき雲が切れて晴れ間がみえるようになった。青く光る小さなタテヤマリンドウやヒメシャクナゲやショウジョウバカマの花も咲いている。日が差すと汗が滲む。絶好のトレッキング日和になった。尾瀬ヶ原はひろい。ここを歩くと老いてゆく心すら解放される気がする。

鳩待峠には15時前に戻った。山の鼻からの最後のつらい登りでは心臓がのどから飛び出しそうになった。

帰路、途中にある鄙びた老神温泉に一泊して帰ってきた。妻は以前に友人と泊まったことがあるが、自分は初めての温泉町だ。名前がいかにも田舎の隠れ里のようで魅力的だ。

老神温泉の名前の由来は、赤城山に棲む大蛇の神と日光二荒山(男体山)のムカデの神が争い、傷ついた蛇の神がこの地に湧き出た温泉で傷を癒し、再びムカデ神を追い、遂には二荒山の神に勝ったという言い伝えに由来する。「追い神」が「老神」に転用されたとされるが、老いた大蛇の神を想像する方が面白い。

温泉町は片品渓谷に沿って走る一本道に開かれている静かな佇まいだった。

泊まったこのホテルチェーンの宿は直前の出発前日の夜に予約が取れた。数種類の源泉から引湯したふたつの露天風呂がある宿で、なんといってもとっても庶民的な値段が嬉しい。年金生活者にはこれはありがたい。食事はバイキングで、とっておきの御馳走はないけれど、夕食はアルコール飲み放題付き。トレッキングの後の疲れを癒すには、これはこれで気楽で良い。朝の散歩には、この温泉地の象徴であるギネス認定の世界一大きな大蛇の神輿の展示館の前庭で連日開かれているささやかな朝市を冷やかすことができる。癖になりそうだ。

 

続続・大乗仏教を学ぶ(完結篇)

上野の東京国立博物館に特別展「運慶 祈りの空間ー興福寺北円堂」を観に行ってきた。

弥勒如来像を中心に、その後方に無著、世親兄弟の立像とそれを取り巻くように四体の四天王立像が、かつて奈良興福寺北円堂で配置されていた様式を再現して展示されていた。

いずれも日本の歴史上最高の彫刻家である運慶(とその弟子)の手によって生み出された国宝である。特に、無著像はこれまで創造された日本彫刻の最高傑作とされている。

兄の無著(むじゃく、アサンガ、無着とも書かれる)と弟の世親(せしん、ヴァスバンドゥ)は四世紀にガンダーラ地方(現在のパキスタン北西部に存在した古代都市)に実在した大乗仏教の根幹をなす唯識論を完成した兄弟である。

兄の無著は天上の兜率天で弥勒菩薩に「唯識」を直接に教授されたとされ、世上に持ち帰ったこの思想を弟の世親が詳しく解説・整理して「唯識論」として完成させた。偉大な仏教思想家兄弟である。興福寺北円堂の三尊はこの伝承と史実を踏まえて、造形されている。なお、余談であるが、無著に唯識を教示した伝承の弥勒は実在の人物であったという説もある。

大乗仏教の主要な経典である大般若経、法華経、阿弥陀経などはすでに西暦150年頃には成立していたとされる。これからの経典によって展開される大乗仏教を支える根本理念にはふたつの重要な論(解釈あるいは注釈)がある。ひとつが無著・世親によって大成された「唯識」論である。もうひとつの根本理念が「中論」である。「中論」(中観)はインド中央に位置するデカン高原に生まれた龍樹(りゅうじゅ、ナーガールジュナ)によって大成されたと伝えられる。無著、世親の生まれたおよそ百年前の二世紀後半から三世紀の頃の出来事とされる。龍樹は、それまでの原始(初期)仏教や部派仏教の「無我」、「非我」、「無常」などの思想を背景に発展的に生まれた大乗仏教における「空」の思想を精緻に体系化した。さらに、これに加えて「中道」を貫く大乗仏教の思想的背景が、龍樹によって完成されたとされる。唯識と中論は独自に発展したとされているが、北伝仏教の時空的な経緯を踏まえると、中論(中観)を踏まえて唯識論が生まれたと考えたほうが理解し易いように思える。

大乗仏教の根幹をなす思想体系は「空」の教義を土台にして、「中論」と「唯識」の二つの論に支えられる理念によって成り立っている。空の概念を車軸とし、中論と唯識のふたつの思想を車輪の両輪として、それまでの部派仏教(上座部仏教)とは異なる新たな大乗仏教が生まれ、はるか千五百年以上の時を超えて北伝仏教として強固な仏教体系を構築して現在に伝えられている。日本仏教はその末裔に位置する。

古典的な大乗仏教では「中論」を宗教的な拠り所とする「中観」派と唯識論に拠って立つ「唯識」派に大別される。奈良の興福寺は唯識派に属する法相宗の寺院であり、その再興に際し仏師であるとともに僧侶でもあった運慶が北円堂に弥勒、無著、世親像を制作した事由はそこにある。

仏教信者でも仏教研究者でもない普通人の自分には「空」も「中観」も「唯識」も説明できるほどの力量はないが、この根本思想が現在の日本仏教に受け継がれていることを認識することはできる。これについて項を改めてどこかで考察してみたい。

大乗仏教が南伝仏教と最も異なる思想体系には、「空」、「中論」、「唯識」の理念と、さらにこれらに加えて「利他」が根本原則であることを明記しなければならないだろう。「利他」思想こそが在家信徒の取り組むことができる身近な宗教的行為として、深淵で難解な大乗仏教を大衆的な次元にまで押し下げる原動力となっている。

仏陀となったゴーダマ・シッダルタを起源とする釈迦牟尼の開いた仏教では「自利」を原則として副次的に「利他」が位置付けられていた。自らが悟りを目指し仏陀になることが最終的な宗教的目的であり、こだわりを捨て輪廻の循環から離脱することで永遠の涅槃に至ること。悟りは涅槃に至る過程であり、唯一無二の仏陀に至ることが叶わなくても菩薩業を積み重ねて涅槃を目指すことが宗教的な到達点であるとされていた。そのためになすべきことは自らの精神的な俗世界からの離脱であって、補助的な他者からの支援が利他であった。他者を助けるのでなく、他者によって支援されることが利他である。他者は自利に励む修行者に帰依することによって恩恵を得る。それが結果としての利他である。現在の南伝仏教にはこの思想が色濃く残影している。上座部では喜捨に感謝することは厳しく諌められている。

奈良法隆寺に伝わる国宝「玉虫厨子」の側面にも虎に自らの肉体を飢えた虎の親子に与える寓話が描かれているのが有名だ。

大乗仏教のこの理念は、伝統的な部派仏教思想と真っ向から対立する。自らのためではなく、他者の利益のために身を挺することが宗教的な最終目的となり得るとされる。自らの命を捧げてでも他者の救済のために尽力し、時によっては法を犯してでも他者を救済することこそが利他の目指すものである。他者を利する高徳こそが涅槃に至る過程であると説かれている。

大乗仏教以前の仏教では仏陀に二者はなく、釈迦牟尼こそが唯一無二の仏陀であり、仏陀の入滅後、末法の世を経て、56億7千万年の時空を経たのち、新たな仏陀が現れるとされていた。衆生はどのように精進や諸行を重ねても菩薩までにとどまり究極の如来の姿の仏陀になることができない。今生に仏陀は実在したひとりのみの、唯一の存在とされている。

一方、大乗仏教では仏陀になった釈迦牟尼は永劫に繰り返される輪廻の一隅にその姿となってこの世に出現したひとりの仏陀に過ぎないと説く。宇宙には目の前の現世と異なる多次元の時空世界が存在しており、たまたまこの目の前の現世の世界に現れたのが仏となった釈迦牟尼であるに過ぎず、無限の宇宙には無限の仏陀が存在するとする。気の遠くなるほどの限りない暗黒に対する絶望感は複雑だが、新たな世界と新たな多数の仏陀の出現の可能性を説く大乗仏教の大きな潮流は民衆(大衆)にとって明るい希望を肌身に感ずる事ができる身近で実現可能な宗教論を展開する。これが大乗仏教独特の死生観や世界観が生み出されることに繋がって行く。この多様性の宗教観がやがてそれぞれの仏教世界を固有に形作る大乗仏教の宗派となって展開していった。

仏教は本来、未来永劫に続く輪廻の苦渋から離脱し、心の安寧を得る「悟り」に至ることがが最終的な到達点とされていた。時を経るに従い、自らの悟りと同次元で、仏による救済を求めることが信仰の本願へと変化していった。超然的な絶対的存在である「仏陀」によって、様々な現世の苦痛からの解放を希求するように変化していったのは在家信者である一般民衆の素朴で本質的な宗教観である。民衆は仏教に帰依した僧侶を仲立ちとして、天上世界に数多住む「仏陀」集団の力に縋るようになり、その結果、時空を越えた多彩な如来や菩薩が複雑に出現あるいは創出されることとなった。信仰によって成り立つ宗教は基本的に貴賤の隔たりなく万民のために存在する。疫病や病苦、悲惨な死からの救済は、時とともに薬師如来、観世音菩薩(観自在菩薩)、千手観音菩薩などの諸仏へと引き継がれ、やがて誰でもが決して避けて通ることの出来ない最大の不条理に至る死と死滅後の究極の苦痛を救済する阿弥陀仏が出現し、死後の永遠の救済として極楽浄土への成仏が説かれるようになった。

釈迦牟尼によって開かれた仏教はやがてインドを離れ、およそ千年の月日を重ねてガンダーラを経て中央アジアからチベット、中国を経て日本へと伝来した。その過程において、独自の展開と変容が生まれた。おそらく宗教そのものがそれを必要とした信徒・民衆の望むものと願いを反映しながら自らの姿を進化させたのだろう。あるいは宗教が“生き物”としての存続をかけて自らの姿を進化させたのかもしれない。長い「時間」は人間の営みや日々の労苦に大きな変化をもたらす。時代とともにインドでは民衆の熱狂的な支持を得たヒンドゥー教が国民宗教となりインドの住民の大勢を占めるようになった。仏教発祥の地であるインドでは次第に仏教は衰退へと向かい、経過の中で多神教であるヒンドゥー教の影響を受け入れ、それまでの顕教とは異なる秘密性の高い密教が生み出された。中国では瞑想とヨーガ(瑜伽行)を主体とした禅宗が誕生した。やがて十三世紀にはインド古来の仏教はヒンドゥー教に取り込まれ消滅の運命を辿った。インド亜大陸に住む仏教徒は現在住民の1%以下となっている。一方、北伝と南伝としてインドを離れた仏教は現在も新たな地で息づいている。

仏教は西暦六世紀に日本に伝来した。仏教は国家権力者によって支配された官制宗教であった。素朴な多神教的自然崇拝によるアニミズムが伝統的な信仰形態であった古代日本に、超大国で先進的な文明と文化を誇る中国から伝来した仏教は、深い思索と高度な論理性を持つ真理に支えられた知的な思想として時の支配者に支持された。その象徴的存在が聖徳太子であった。彼は日本仏教発展史上最大の功労者である。奈良時代の南都六宗として整備された国家宗教は、国の安寧と権力者のための、いわば自らを防衛するための拠り所、あるいは手段として歓迎された。希求されたという方が正しいのかもしれない。一般民衆・衆生の手の届く信仰ではなかった。八世紀には日本仏教に革命をもたらした二人の偉人がいる。伝法大使・最澄と弘法大師・空海である。日本仏教は彼等二人によって新たな展開を迎えることとなった。以後、日本国内で伝承された中国由来の大乗宗派仏教は、激動する時代とともに新たな精力的な指導者(開祖)を生み出していった。彼らは膨大な伝統的な大乗経典の中から拠り所とするひとつ、あるいは数点の経典を選択して宗派ごとの根本原理として定め、現世に苦悩する民衆の救済を目指して独自の宗教的世界観を切り拓き、現代へと繋がった。

時には為政者による政治的な戸籍管理の目的とする人別制度に組み込まれ、あるいは死者を死後の世界へと導く職能的な専門集団とみなされて葬式仏教と揶揄されることがあるものの、それぞれの宗派は特徴のある宗旨を掲げて民衆や為政者に対する活動を続けた。日本仏教は日本人の深層的心情に深く根を張り、一般大衆にも手の届く民間宗教へと発展し、現在では、南都六宗系、平安仏教系、鎌倉新仏教系、禅宗系へと分かれて存在し続けている。

現代の日本仏教は「仏教十三宗派」に大別されるのが一般的だ。南都六宗(三論宗、成実宗、法相宗、倶舎宗、華厳宗、律宗)として栄えた日本の古代仏教で現在まで存続するのは法相宗、華厳宗、律宗の三宗派である。さらに天台宗(日本天台宗)、真言宗、浄土宗、浄土真宗、時宗、融通念仏、臨済宗、曹洞宗、日蓮宗、黄檗宗などが、現代日本仏教十三宗派と呼ばれて、現在も活発な宗教活動を行なっている。

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記載を中断して半年が過ぎてしまった。今日は令和8年5月28日だ。

日本仏教を自分なりに整理して、この宗教についての理解を深めるつもりで、このブログは今回で完結編としたが、これが結構な難事業だった。この間、兄の急逝など、いろいろことがあった。遺族の意向で葬儀にともなう宗旨替えや寺替えもあって、この経験によって、日本における仏教の今日の姿や日本人の死生観や死者の弔いについてさらに思考を深める機会が与えられた。

現代日本仏教十三宗派のうち、現在もっとも広い底辺をもつものは浄土真宗と日蓮宗関連宗派だろう。この二大宗派は他の宗派と異なる趨勢を示す。二宗派とも最澄が伝え、整理、発展させた日本天台宗をその源流とするけれど、法華経を根本教義とする日蓮宗関連宗派と浄土教にはその他の日本の大乗仏教宗派とを大きな違いがある。この二宗派系はともに他宗派と異なり排他的である特徴が共通する。

思考を深めるために、昨年末は日本仏教伝来に縁の奈良の古寺を訪ねた。飛鳥寺の飛鳥大仏にお参りし、聖徳太子ゆかりの橘寺や法隆寺、日本仏教に初めて正式な受戒(戒律)を授けた鑑真の唐招提寺、聖武天皇の東大寺での年越しなど、を再訪し日本仏教の源流に接する旅をした。

昨年夏には北伝仏教の伝来経路を辿る敦煌莫高窟を見学し、西安では玄奘三蔵法師ゆかりの大慈恩寺大雁塔や義浄ゆかりの小雁塔を訪ねた。さらに、今年の五月のゴールデンウィークにはさらに仏教伝来の道を探索するために、シルクロードと西域のタクラマカン砂漠縦断、玄奘や鳩摩羅什ゆかりの庫車(クチャ、古代のオアシス国、亀茲国(きじこく))やカシュガルに脚を伸ばしてみた。西域訪問記は詳細は別に書きたいと思う。

翻って、もう一度日本仏教について考えてみると、今更ながらであるが、あることに気がついた。現代日本仏教は浄土系と日蓮関連宗派とそれ以外の三者に大別できることだ。八百万の神々を許容する日本人は、神様も仏様も同等に扱われてきた。これは仏教信仰でも同様で、真言宗でも天台宗でも浄土宗でも、あるいは日蓮宗の寺院でも梯子してお参りすること少なくないし、拒否感を感じない。仏教伝来の経路を遡っても、あるいは史跡を訪れても、この宗教性の理解には貢献しないことに気がついた。日本の仏教は深く日本人の日常に根を張り、出生から死滅まで、人生のすべての事象にその影響を与えている。それでも日本仏教には大別して三つの大きな流れ、あるいはふたつの大流とその他があることに気がついたのである。

この日蓮宗系と浄土真宗系を除く諸派仏教は、天台宗、真言密教、禅宗をふくめ、由来や教義、根本経典の有無や種類はともかくとしても、日本における広義の大乗仏教の属する宗派である。浄土宗系と日蓮系は(禅宗系である黄檗宗を含めても)これらと異なる鎌倉以降に日本で固有に発展・普及した大衆仏教であり、民衆のための仏教として時代を越えて生き残り発展を遂げてきた。今ある日本仏教はこの三系統に分けられると考えると理解しやすいのだ(江戸時代に招聘された禅宗の黄檗宗についてはここでは考察しないこととする)。

阿弥陀仏による死後の救済を説く阿弥陀経を教義とする浄土教は、大般若経を宗旨とする他の大乗仏教とは別に発展した歴史を持つ。成書によれば、阿弥陀経は紀元一世紀頃の成立とされるが、すでに紀元前1世紀頃にはその原型が生まれたとされる。伝法大使・最澄が目指した日本の総合仏教教学である日本天台宗にも浄土思想は含まれているが、ひたすら念仏を唱える信仰形態はそのなかでも特異な存在であった。信奉者たちは本院とは他所の「別所」で信仰を深めたとされる。今も日本各地にのこる「別所」の地名は、本流のひたすら精進と修行による成仏を目指す大乗仏教とは異なる、異端的な信仰集団の存在を暗に示す象徴的な呼称だったことを想起させる。

最澄は様々な形式や異質な教義と共に日本に伝来した「伝来仏教」をひとつの大きな体系へ集約しようと努力したのに違いない。すべてが仏教であり、顕教も密教、浄土経典も法華経も互いに違う切り口で仏教を展開していているだけで、方便や理解の仕方やそれに沿った教義の展開はあっても根本となる仏教本来の目指す到達点は同一であると考えたのであろう。

浄土系、とくに浄土真宗はその根拠となる根本教義を阿弥陀経、無量寿経、観無量寿経(いわゆる浄土三部経)とし、念仏を唱えることによって阿弥陀仏に帰依し、死後の往生を遂げるとする絶対他力の信仰である。俗人には難解な悪人正機説はその象徴だ。謂わば、キリスト教のような一神教の信仰に近い宗教である。信心への理解が容易で、親鸞が示した世俗を否定しない極めて寛容な宗派ともいえる。

一方、日蓮宗系の起源は日本天台宗で修行した日蓮を開祖とする。日蓮は修行の末、法華経を根本経典として独自の宗派を開き、法華経以外の他のすべての仏典は方便に過ぎないと断ずる。根本的に他の宗派に対して排他的であるとともに、偶像崇拝を嫌い、題目を唱えることで即身成仏がもたらされ、さらに個人の救済ばかりではなく、国家に平和と安寧をもたらすとする政治的な側面をもつ教義は他の日本仏教宗派とは一線を画する位置にある。教義を含む根本経典そのものが信仰の対象であることが他の日本仏教宗派と大きく異なる。謂わば、イスラム教のコーラン信仰に類似する、好戦的な信仰形態なのである。

日本大乗仏教諸宗派で最も親しまれ、かつ大衆的で、仏典の中で最も短い経典は般若心経である。浄土真宗と日蓮宗では、他の宗派では一般的に読経される般若心経を唱えない特徴も両者では共通している。それがこの宗派のアイデンティティ(独自性)としての主張なのかもしれない。なぜこの二つの宗派が現代の日本で発展し、今日の隆盛を維持しているのかにはさらに考察が必要だろう。ある意味で、このふたつの宗派が日本で独自に誕生し、現代日本仏教を象徴する仏教の信仰形態なのだろう。

個人的に抱く日本大乗仏教に対するイメージは遥か天空の異次元世界や極楽浄土が最終到達点ではないように思える。無と空、有限と無限、不思議と不可思議が混在する混沌の時間を彷徨う自らの存在を深く認識する思索へと導く方便のように感じるのが自分の日本独自の仏教へのイメージだ。

日本仏教については、思考を完結したいがなかなかうまくまとめることができない。さらに思考を深めるためには法華経や浄土三部経そのものへのアプローチが必要なのかもしれない。まだまだ勉強が足りないのだ。とりあえず完結することはできないが、この稿はいったん終えることとしたい。さらに学習していつか続きを書きたい。

 

 

映画「国宝」を観てきた

このところ上着を翻すほどの北風と冷たい雨が降る日が続いている。つい二十日ほど前まで、半袖に半ズボンの軽装で過ごしていたのが嘘のようだ。朝と夕方には床暖房をいれ、ダウンの上着を着て過ごしているのが不思議な気がする。今はもう晩秋の気候となったしまった。

天気さえよければ、例年の年中行事のように、高い空の下で黄金色に染まる湿原トレッキングや芸術の秋にふさわしい上野公園の森の散策と美術鑑賞にでも行きたいところだが、急な寒さと雨で意欲がわかない。近場でできる気分転換(そんな必要のないようなストレスのない生活ではあるが)では、映画を観に行くことも、その他の選択肢のひとつではある。我が集合住宅の目の前には映画館があり、玄関を出てものの5分もあれば劇場の椅子に座れるからだ。

気持ちの悪いスリラー映画や悲惨な映画は観たくない。ガチャガチャうるさい映画も気が進まない。できればハッピーエンドか、観終わったあとほっこりできる娯楽作品や馬鹿馬鹿しいけれどすっきりできる楽しい冒険譚がよい。選択肢のなかにはその時に話題になっている流行物(はやりもの)もある。いわゆるただの「ミーハー」(後述)なのである。

映画「国宝」

そういう嗜好なので、まだ観ていない映画で空前の大ヒットとなっている映画「国宝」はどうか。難点は上映時間が長いこと、およそ3時間に及ぶ映画なのでなんとなく敬遠してきた。途中でトイレに行きたくなったらどうしようかと心配になったしまうからだ。内容は知らない。せいぜい歌舞伎をテーマにした吉田修一の長編小説が原作くらいの知識しかなった。

歌舞伎には興味があり、一度は直に歌舞伎座や演舞場で本物を観てみたいとは思ってきたが、いまだその機会がない。他に観てみたいと思っている映画がない訳ではなかったが、流行物にはそれなりの理由と価値があると思うので、重い腰を上げてこれを観に行くことに決めた。調べるとおあつらえ向きの朝九時から昼過ぎまでの上映スケジュールがあった。午前中なら途中で眠くなって鼾をかくこともないだろうし、朝食後に水分制限さえすれば3時間のトイレは我慢できるだろう。

この映画はアカデミー賞を受賞した「フラガール」や「悪人」などの話題作の多い社会派監督、李相実が監督だった。いずれの作品も観ていないが、映画を観終わったあとこのブログを書くために調べてみると、この人は新潟県出身の在日朝鮮人三世だそうだ。なにも事前に知らなかったことで、おそらく、日本生まれの在日三世が描く日本の伝統芸能はどうなのだろうかとか、余計な先入観やバイアスなく映画を観ることができたのはかえってよかったと思う。自分自身の経験でも、外国籍でこの国に生まれ育ったものには、日本の文化や伝統を客観的にみたい、自分なりの評価と理解をしたいという潜在的な意識が自覚の有無によらずあるに違いないと思うからだ。

さて鑑賞後の感想は、やはり長い(長尺な)映画だった。ネタバレになるので内容についての詳細は省くが、第一に、歌舞伎という伝統芸能を美しく描いた作品だというのが率直な印象だ。監督が日本の伝統芸能である歌舞伎をこよなく愛していることがよく理解できた。主人公をはじめとして登場人物達の人生模様を横軸に、伝統や血縁、血筋や家柄を縦軸として描かれたほろ苦い友情と現実の厳しさを描いた映画だった。途中で省かれてしまった詳細な時間の経過には説明不足な不満が残ったし、ハッピーエンドで終わる作品ではあるものの、なぜか喉の奥にザラついた記憶がのこる作品でもあった。自身が愛する美しい伝統への賛歌に加えて、おそらく監督が描きたかったことのもう一つには、日本社会が内に秘める容赦ない現実なのではないだろうかとも思えた。そしてなにより、個人の努力と才能は、抗いがたい血脈の力と同じように大輪の花を咲かす原動力になりうることを描きたかったのではないか。娯楽作品としての美しさのなかに、ずっしりと心の奥に沈殿する重さのある映画だったというのが感想だ。

水分制限とトイレを済まして映画館に入ったはずなのに、やはり見始めて1時間半くらいでトイレに行きたくなってしまった。残りの1時間半は結構な我慢が必要だった。これは歳のせいではなく、きっと予想外の秋の寒さのなせる意地悪だったのだろう。

ところで、前述の「ミーハー」という言葉は、流行に流されやすい、浮ついた性格という意味の、どちらといえばネガティヴな意味合いのある蔑称なのだそうだ。昭和の時代の言葉で、たしかに最近は耳にすることがない俗語だ。今時の若者に言っても通じない死語かもしれない。たまたま、その由来を調べたら面白いことが書いてあったので、蘊蓄として書き残しておこう。

「ミーハー」の語源にはいくつかの説があるという。そのひとつに、明治時代の坪内逍遙幸田露伴の小説に由来があり、「みいちゃん」と「はあちゃん」の略語で、若い女性の典型的な愛称だったという説。「美(みい)ちゃん」の「みい」、「はあ」は「春(はる)ちゃん」が「はあ」となって出来たというもの。英語の「Me,too(私も)」「Oh,her!(あら、彼女!)」という言葉からの造語、また力士仲間の隠語で愚か者を意味する「はあちゃん」に由来するとする説、音階のミとファに由来する言葉遊びに由来するという説(なぜこれがいわゆる「ミーハー」を意味するのかは不明)。明治末期に発明された若い女性が大好きなデザートの「みつまめ」と昭和初期にデビューした俳優の「林長二郎(のちの長谷川一夫)」大好き人間の頭文字から「ミーハー」ができたという説などもある。日本語の由来は面白い。

 

 

 

桂林・漓江下りと龍脊峡棚田観光

黄布倒影(20元紙幣に
描かれる景色、興坪鎮)

10月10日から四泊五日の団体旅行で中華人民共和国広西チワン族自治区桂林に観光旅行に出かけた。

優麗な奇景の水墨画で有名な桂林の景色を直に眺めることが目的だ。

中国では国中を上げての喧騒に沸いた国慶節(中国の建国記念日の連休、春節と同様の2回のゴールデンウイークのひとつ))が終わり、静かな10月半ばも近くなのに雨降りの最終日を除き連日36℃の猛烈な真夏日の中での観光だった。亜熱帯のこの広西チワン族自治区では、今が金木犀の咲く観光に最適な時季のはずだが、この数年は以前と違い暑すぎる気候が続いている。このためこの季節に咲くはずの金木犀の花(中国名では桂花)がまだ咲いていない。キンモクセイは桂林の市花。桂花栽培は観光とともに桂林の経済を支える二大産業のひとつで、全世界の桂花のエキスを原料成分とする香料や香水などの製品の七割以上が桂林の産物を使用しているという。

行きと帰りにそれぞれ丸一日かかったので実質は現地三日間の観光旅行だった。

目玉は風光明媚な漓江下り、のんびり四時間の川下り。

滞在したホテルは漓江沿いのシェラトンホテルに四連泊で移動がなく楽だった。桂林旅行日程は以下の如く。

○1日目(10/10金曜日)

羽田空港第2ターミナル 9:05発 広州空港12:30着(日本時間13:30) バス移動 広州南駅14:50着 16:39発 高速鉄道移動(B1862) 桂林西駅19:30着 バス移動20分 食事レストラン20:00着 20:40発( 20分)シェラトンホテル着21:00

○2日目:漓江下り

ホテル朝食6:30 7:40出発 高田郷車窓見物 月亮山記念写真撮影 9:20 竹江船乗り場遊覧船乗船 11:30 昼食(船内バイキング) 13:30下船 陽朔船着場下船・陽朔西街徒歩観光 14:20バス乗車(復路・高田郷通過)15:30茶屋(土産屋) 発17:00 夕食市内レストラン(ビーフン料理)ホテル帰着

○3日目:市内観光

ホテル朝食6:30  8:00出発 8:20芦笛山鍾乳洞着(全長500メートル 山の山腹100段上り観光一時間) 9:05退出 桂花公社(私営博物館、キンモクセイのお土産屋)10:30発 象鼻山観光・散策 11:30 昼食(飲茶料理) 12:25発 ホテル帰着12:40 休憩 午後市内観光(16:30出発)逍遥楼(漓江展望施設)東西巷・正陽街散策 夕食18:00 ホテルにて桂花料理

○4日目: 龍脊棚田

ホテル朝食6:30 市内散策(漓江岸)集合出発 9:20 バス移動 2時間 段々畑・龍脊棚田観光 11:20バス乗場 12:30 現地観光用バス乗換え(15分) 棚田散策 昼食13:10 龍勝田舎料理(竹料理) 14:00 食後自由時間(散策)14:55 集合・出発 龍脊峡駐車場15:10着 バス乗換 市内レストラン直行17:25 夕食 広東料理 ホテル帰着18:40

○5日目:帰国

モーニングコール5:30 朝食なし(サンドウイッチ弁当と茹で卵に果物)6:20出発 桂林北駅へ 高速鉄道・桂林北駅 7:37発(D1891) 広州南駅10:40着(10分遅れ) バス移動 乗車11:05 広州空港着 12:30 広州空港発18:45(発予定14:15、4時間30分遅れ )全日空NH0924 羽田着  23:20 (予定19:45)自宅着  24:25

返りの航空便は羽田発広州折り返し便だったが、機種の不具合で羽田の出発が4時間以上遅れたため広州空港で4時間以上の待ち合わせ時間があった。幸い羽田第3ターミナル到着の最終電車の間に合ったので曜日は変わったけれどその日のうちに帰宅できた。

○漓江下り

漓江は桂林市資源県(しげんけん)に源を発し、桂林を北から南へと縦断する河川だ。桂林はすでに秦の始皇帝時代から開かれた二千年以上の歴史ある古い街だが、その景観から多くの文人墨客に愛され、彼らによって描かれた山水画によって世界中によく知られた観光のメッカである。とくに日本人にはなじみの深い景勝地だ。

川下りの遊覧船が列をなす

漓江の水量は少ない。水は澄んでいて、船上デッキから底が見える。旅行社が予約した大型遊覧船以外にも数人しか乗れない竹舟もたくさん浮かんでいた。太い竹をただ並て束ね船外モーターで移動する簡素な筏のような舟だ。これはこれで風に吹かれて快い舟遊びだろう。

季節による水量の多少で漓江下りの遊覧時間は異なるようで、もっともポピュラーな竹江から陽朔までの通常のコースでおよそ4ないし5時間だという。

デッキに出ると真夏日の日差しが厳しくすぐ汗が吹き出してくるが、乗った大型遊覧船内はゆったりとしていて空調も快適だった。船内でバイキング料理の昼食が供される。

九頭の馬が居るようにみえる九馬画山

漁をする人

次々と展開する特異な光景はまさに山水画に描かれている風景そのもの。直に眺めると描かれている水墨画にはまったく誇張がないことが実感できた。まさに奇景だ。心地よい四時間だった。

○龍脊棚田(龍勝棚田)

日本では龍勝棚田と表記されている龍脊峡、チワン族の営む棚田は圧巻。訪れるまでまったく知らなかったけれど、中国では米作りの故郷として有名な場所らしい。

20数年前から棚田の復興が始まり、現在ではこの地方有数の観光地になっている。

ひとつひとつの棚田には稲の苗が二筋植えられている。畝は狭い。ちょうど収穫時期を迎えて稲穂が美しい黄金色に色づき、穂が首を垂れていた。よく見ると穂に付いている稲穂の蕾が小さい気がした。

龍脊峡に広がる棚田

昼食に郷土料理の竹料理のご飯をいただいた。餅米の中に海老や豚肉を混ぜて竹に詰め、竹の鞘ごと焼いて食する郷土料理だ。

棚田の中につづら折りで開かれた迷路のような道には古い民家や農家が軒を連ねていた。急な階段や棚田に続く細道を歩いていると百年前にタイムスリップしたような感覚になる。

日本にも棚田百景にあげられている美しい棚田が各地にあるが、中国はスケール感がまるで違う。雲に隠れて見えない視界の果てまで続く光景には言葉に尽くしがたい感動があった。

○市内観光

桂林地区はカルスト地形に拓かれている。浸食によって奇岩や奇景がうまれ、地下にはあちこちに多くの鍾乳洞がみられる。

◯芦笛岩(桂林最大の鍾乳洞)

入口から出口まで500メートルの鍾乳洞、中はカラフルにライトアップされている。演出過剰で笑ってしまう。

芦笛岩入口

◯象鼻山(象山公園)

桂林市街を流れる漓江と桃花江の合流点にある街のシンボルの象鼻山、多くの観光客で賑わっていた。象が漓江に鼻を入れて水を飲んでいる姿に見立てた観光地。

象の鼻に見立てた観光地

○高田郷(こうでんごう)と月陵山

高田郷の景勝地

山腹に丸く穴が開いた月亮山

○繁華街見学

ホテルの近くの東西巷と正陽街を散策。屋台が賑わう最近になって再整備された繁華街だ。夜は大勢の観光客で賑わう夜市になる。老朽化したマンションを潰して最近出来た漓江展望台、逍遙楼に登り、市内を眺める。

正陽歩行路

逍遙楼(展望台)

東西巷

古い石垣が残る街角

靖江王府の城壁、今も子孫が住んでいる(今回は入らなかった)

○早朝の漓江岸辺散策

4日目の朝は時間があったので漓江の岸辺を散策した。市内を流れる漓江も水深が浅い。河の中程でも腰まで以下の水深だった。岸辺では小さな川魚を釣る釣り人、川中ではおそらく蜆のような貝をを取る人、浮き輪をつけて泳ぐ人がいた。流れは穏やかだ。

解放橋を渡りホテルの対岸を歩くと遊泳場があった。多くの高齢の男女が水浴をかねて泳いでいた。河は綺麗でゴミひとつ流れていなかった。

前日に登った逍遙楼はすぐそばだった

解放橋には多くの電動二輪車自動二輪車)が走っていた

遊泳場(水浴場か)

貝を採っているようだった

河掃除の舟だろう

杉湖、ナイトクルージンの発着場

桂林は人口500万人の中国では中規模(現地ガイドは小規模と言っていたが)の地方都市だ。たしかに上海や北京、広州などの人口2000万人を超える超巨大都市に比べれば、こぢんまりとした観光都市かもしれない。それでも2000年以上続く歴史的な街には美しい景観と情緒ある漓江の流れ、心癒される趣きがあった。中国特有の超高層ビルが少ない街中には不思議な安心感があった。景観を保護するために建物の高さが制限されているという。

解放橋と桂林の町並み

逍遙楼から

最近になって現代風に再整備された街路や再建された展望楼には古い歴史の面影は残っていないけれど、喧騒の中にもなぜかしっとりとした落ち着きを感じた。時代と共に変容する生き物としての街もその奥には普遍の時間を秘めているからだろう。観光旅行で駆け足で通り過ぎてしまう束の間の訪問者としてではなく、しばらく滞在して体の奥までこの地の大気を吸い込み奇岩やたおやかな流れを眺めてみたい気がした。残された時間には限りがあるが、次に来る機会があれば、スケッチブックを小脇に挟んで古い伝統を守る少数民族の棲む村々ものんびりと訪ねて回りたいと思った。

今日は何の日

今日は敬老の日

そして義母の9回目の命日だ。

80歳過ぎまで薬剤師として働いていた義母は大正の生まれ、いわゆるモガの世代だ。

いつも矍鑠(かくしゃく)として泰然自若、多趣味で好奇心の旺盛な人だった。年を重ねても少女時代の初々しい心の若さを保った人だった。

我が家には仏壇がないので、写真に御線香を一本供えて、朝一番で般若心経を唱えて、冥福を祈った。

色白で、ふくよかな体型から子供達からは象さんと呼ばれていた。白い象さんである。まさに霊獣のイメージだ。

最近では65歳以上が高齢者とされる。が、平均余命が伸びた今の時代、65歳以上で高齢者扱いには、少なからず違和感を感じてしまう。もちろん個人差はあるだろうけれど、高齢化社会を迎えたこの時代において、敬老の対象者とは誰なのかと考えてしまう。

暦年齢は機械的に毎年増えてしまうが、義母の様に90歳を過ぎても矍鑠として過ごしていた身近な存在を思うと年齢だけで色々と判断するのもどうかとと思ってしまう今日この頃である。

ちなみに75歳以上を後期高齢者と呼ぶのもどうなのだろう。後期の次は終期なのだろうか(あるいは末期かも)。意味深である。

伊藤若冲筆 象と鯨図屏風