今年のお盆休みはマダガスカル旅行に行った。
マダガスカル共和国はモザンビーク海峡を挟んでアフリカ大陸のインド洋側に位置する島国だ。現地の民話では、太古に天上の神が最初に地上に足を下ろした場所がこの地であると言い伝えらている。指先を赤道方向に向けて南北に伸びるこの国の形は神様がその際に残した左足の跡だという。
熱帯に属するこの島国は日本の1.6 倍の面積の国土に、日本の1/3以下(2961万人)の人口しかおらず、国の中央部分の大半は砂漠に近い高原が占める。乾燥地帯の高原のほぼ真ん中に首都アンタナナリボが位置する。日本の夏の時期はこの土地は冬の乾季に当たる。
国の始まりは西暦500年ころ現在のインドネシアからアフリカへの航海中にたどり着いた人々(オーストロネシア系部族、日本語では南島部族と訳される)が定住したことによるというが、口承口伝による民話以外にマダガスカルの太古について伝えらるものはものなく、詳しい来歴は不明だ。歴史に登場するのはポルトガルやオランダ、フランス、イギリスなどの西欧の国々が次々と領有と植民地化に鎬(しのぎ)を削って侵略と撤退を繰り返した16世紀以降のことで、海辺に拓かれた町々は次第にアフリカ大陸から連れて来られたアフリカ原住民達の奴隷貿易の中心地となっていった。18世紀になってようやく、およそ18の部族によって構成されるこの国の住人のうち西部一帯を支配したインドネシア起源の一族(メリナ族)が中央高原に強力な王国を建国して中央高原の最も高い丘にあるアンタナナリボを首都と定めた。それまで狩猟や焼畑農業が中心であったこの国では彼らメリナ族によって水耕栽培が全土に広められたという。現在もこの高原都市アンタナナリボがマダガスカルの首都である。
19世紀後半から続くフランスの植民地支配から独立してマダガスカル共和国が成立したのはつい最近の1960年のことだ。その後も政情は安定せず、革命や社会主義化や民主化への揺り戻しなどの紆余曲折があって現在にいたる。政治・経済はいまも安定せず、一部の富裕層や権力者が利権を独占しており、現在も世界の最貧国のひとつとして名前が上げらえている。
なぜマダガスカルに訪れることにしたかというと、大した動機はないのだ。固有種に満ちた動植物の生物多様性を維持する環境や世にも稀なる奇態の植物、バオバブの木を見てみたいというのが単純な理由だった。前知識としては、バオバブとカメレオンとキツネザルが生息する島くらいだった。でも、実際行ってみるとまさにその通りの島だったのだ。
マダガスカルと日本の時差はマイナス6時間。8月9日(金)の夜に成田空港を発ち韓国(インチョン空港)、エチオピア(アジスアベバ空港)を経てマダガスカルのアンタナナリボ空港に着いたのは現地8月10日の午後1時半過ぎだった。
乗り継ぎを加えて21 時間の長旅だった。SY旅行社のこのツアーの参加者は11名(男5、女6)だった。自分達夫婦が最高齢だった。さらにここから4台の四輪駆動車(SUV)に乗り換えて約5時間、最初の宿泊地アンツィラベに着いたのは午後9時45分だった。すでにあたりは真っ暗になってしまった。ホテルはデ・テルメ[De Thermes]。疲れ果てて食事もそこそこに寝てしまった。浴槽にお湯を貯めて入浴できたのが有り難かった。
現地二日目(8月11日(日))は朝食もそこそこに夜明け前の朝5時にまた車に分乗して出発。立派なホテルはただ泊まるだけだった。中央高原を横断すること500キロ、およそ10時間かけてガタガタ道をひた走った。マダガスカルはかつて緑の島と呼ばれていたという。走破した中央高原は見渡す限り、一面の乾燥した赤色の大地だった。生活のために燃料として樹木を伐採しさらに焼畑農業が国土をすっかり赤い荒野の姿を変えてしまった。現在のマダガスカルは赤い島と呼ばれているそうだ。
青空トイレで休憩した原野の中ほどで砂金を掘る集団に遭遇した。わずかに取れる砂金を炎天下の枯れた川の跡で採取している。一日働いてどれだけの収入になるのだろう。まだほんの子供の集団が学校にも行かずに働いている。その姿をみた私たちの旅行者の一人が今は夏休みだろうから(現地は冬)働いているのだろうねと聞くと、4WDを運転する現地の運転員がこんな場所のどこに学校があるというのだ、学校なんて誰も行ってなんかいない、とフランス語で話していると、旅行グループのメンバーで語学が達者な京都の私立大学の語学教授が教えてくれた。マダガスカルの公用語はマダガスカル語とフランス語だ。公称ではマダガスカルの義務教育は5年制だという。しかし都市部に暮らす富裕層の子弟をのぞき多くは自分の名前が書けて金銭の勘定ができるようになる2年かせいぜい3年だけ学校に通っているという。そもそも都市部を遠く離れた原野の中の集落には学校がないのが実情だ。想像以上に貧しい国なのだ。
中央高原から海岸方向へと下る途中で2度赤い川を渡った。4WD車4台がやっと乗る小さな艀(はしけ)に同乗して川を渡る。狭い鉄の渡し板で車を艀に乗せる作業は冷汗ものだった。
人生で最も長く悪路を走って17時前に有名なバオバブの並木道に着いた。腰痛が再発するのではないかと心配だったがなんともなかった。この旅行中はずっと四輪駆動車に乗り詰だったが腰痛は起こらなかった。案外揺られているのが腰には良いのかもしれないと思った。
マダガスカルを象徴するバオバブの木の存在感は想像以上だった。太い幹の上に青く広がる無限の天を掴もうとするように枝が広がる。これまで写真で知っていた独特な姿を直に根元から見上げると実物の持つ神々しいほどの存在感に圧倒された。少し艶のあるゴツゴツした幹を撫でると不思議な生命力の共鳴を感じた。乾燥した大地にどっしりと立つその姿は感動以外の何者でもないほどの不思議なオーラを放っていた。乾季の冬には葉はすべて落ちていたが、散る寸前の花や落ちる間際に実がその姿をいっそう印象付けていた。
西の方に陽が沈む。千年を超える樹齢も珍しくないという神秘の幹が黒いシルエットになって生命の木と呼ばれるのがふさわしい姿を見せていた。まさに宇宙の永遠を告げている。はるばるこの東アジアの果てから尋ねてきた甲斐があった。
<この稿未完>