マダガスカル紀行

f:id:darumammz:20240916053510j:image

今年のお盆休みはマダガスカル旅行に行った。

マダガスカル共和国モザンビーク海峡を挟んでアフリカ大陸のインド洋側に位置する島国だ。現地の民話では、太古に天上の神が最初に地上に足を下ろした場所がこの地であると言い伝えらている。指先を赤道方向に向けて南北に伸びるこの国の形は神様がその際に残した左足の跡だという。

熱帯に属するこの島国は日本の1.6 倍の面積の国土に、日本の1/3以下(2961万人)の人口しかおらず、国の中央部分の大半は砂漠に近い高原が占める。乾燥地帯の高原のほぼ真ん中に首都アンタナナリボが位置する。日本の夏の時期はこの土地は冬の乾季に当たる。

国の始まりは西暦500年ころ現在のインドネシアからアフリカへの航海中にたどり着いた人々(オーストロネシア系部族、日本語では南島部族と訳される)が定住したことによるというが、口承口伝による民話以外にマダガスカルの太古について伝えらるものはものなく、詳しい来歴は不明だ。歴史に登場するのはポルトガルやオランダ、フランス、イギリスなどの西欧の国々が次々と領有と植民地化に鎬(しのぎ)を削って侵略と撤退を繰り返した16世紀以降のことで、海辺に拓かれた町々は次第にアフリカ大陸から連れて来られたアフリカ原住民達の奴隷貿易の中心地となっていった。18世紀になってようやく、およそ18の部族によって構成されるこの国の住人のうち西部一帯を支配したインドネシア起源の一族(メリナ族)が中央高原に強力な王国を建国して中央高原の最も高い丘にあるアンタナナリボを首都と定めた。それまで狩猟や焼畑農業が中心であったこの国では彼らメリナ族によって水耕栽培が全土に広められたという。現在もこの高原都市アンタナナリボマダガスカルの首都である。

19世紀後半から続くフランスの植民地支配から独立してマダガスカル共和国が成立したのはつい最近の1960年のことだ。その後も政情は安定せず、革命や社会主義化や民主化への揺り戻しなどの紆余曲折があって現在にいたる。政治・経済はいまも安定せず、一部の富裕層や権力者が利権を独占しており、現在も世界の最貧国のひとつとして名前が上げらえている。

なぜマダガスカルに訪れることにしたかというと、大した動機はないのだ。固有種に満ちた動植物の生物多様性を維持する環境や世にも稀なる奇態の植物、バオバブの木を見てみたいというのが単純な理由だった。前知識としては、バオバブとカメレオンとキツネザルが生息する島くらいだった。でも、実際行ってみるとまさにその通りの島だったのだ。

マダガスカルと日本の時差はマイナス6時間。8月9日(金)の夜に成田空港を発ち韓国(インチョン空港)、エチオピアアジスアベバ空港)を経てマダガスカルアンタナナリボ空港に着いたのは現地8月10日の午後1時半過ぎだった。

アンタナナリボ空港の到着出口

乗り継ぎを加えて21 時間の長旅だった。SY旅行社のこのツアーの参加者は11名(男5、女6)だった。自分達夫婦が最高齢だった。さらにここから4台の四輪駆動車(SUV)に乗り換えて約5時間、最初の宿泊地アンツィラベに着いたのは午後9時45分だった。すでにあたりは真っ暗になってしまった。ホテルはデ・テルメ[De Thermes]。疲れ果てて食事もそこそこに寝てしまった。浴槽にお湯を貯めて入浴できたのが有り難かった。f:id:darumammz:20240916162112j:image
f:id:darumammz:20240916162117j:image
f:id:darumammz:20240916162108j:image

現地二日目(8月11日(日))は朝食もそこそこに夜明け前の朝5時にまた車に分乗して出発。立派なホテルはただ泊まるだけだった。中央高原を横断すること500キロ、およそ10時間かけてガタガタ道をひた走った。マダガスカルはかつて緑の島と呼ばれていたという。走破した中央高原は見渡す限り、一面の乾燥した赤色の大地だった。生活のために燃料として樹木を伐採しさらに焼畑農業が国土をすっかり赤い荒野の姿を変えてしまった。現在のマダガスカルは赤い島と呼ばれているそうだ。

中央高原

荒野が続く

砂金を採る子どもたち

青空トイレで休憩した原野の中ほどで砂金を掘る集団に遭遇した。わずかに取れる砂金を炎天下の枯れた川の跡で採取している。一日働いてどれだけの収入になるのだろう。まだほんの子供の集団が学校にも行かずに働いている。その姿をみた私たちの旅行者の一人が今は夏休みだろうから(現地は冬)働いているのだろうねと聞くと、4WDを運転する現地の運転員がこんな場所のどこに学校があるというのだ、学校なんて誰も行ってなんかいない、とフランス語で話していると、旅行グループのメンバーで語学が達者な京都の私立大学の語学教授が教えてくれた。マダガスカル公用語マダガスカル語とフランス語だ。公称ではマダガスカルの義務教育は5年制だという。しかし都市部に暮らす富裕層の子弟をのぞき多くは自分の名前が書けて金銭の勘定ができるようになる2年かせいぜい3年だけ学校に通っているという。そもそも都市部を遠く離れた原野の中の集落には学校がないのが実情だ。想像以上に貧しい国なのだ。

中央高原から海岸方向へと下る途中で2度赤い川を渡った。4WD車4台がやっと乗る小さな艀(はしけ)に同乗して川を渡る。狭い鉄の渡し板で車を艀に乗せる作業は冷汗ものだった。

人生で最も長く悪路を走って17時前に有名なバオバブの並木道に着いた。腰痛が再発するのではないかと心配だったがなんともなかった。この旅行中はずっと四輪駆動車に乗り詰だったが腰痛は起こらなかった。案外揺られているのが腰には良いのかもしれないと思った。

マダガスカルを象徴するバオバブの木の存在感は想像以上だった。太い幹の上に青く広がる無限の天を掴もうとするように枝が広がる。これまで写真で知っていた独特な姿を直に根元から見上げると実物の持つ神々しいほどの存在感に圧倒された。少し艶のあるゴツゴツした幹を撫でると不思議な生命力の共鳴を感じた。乾燥した大地にどっしりと立つその姿は感動以外の何者でもないほどの不思議なオーラを放っていた。乾季の冬には葉はすべて落ちていたが、散る寸前の花や落ちる間際に実がその姿をいっそう印象付けていた。

西の方に陽が沈む。千年を超える樹齢も珍しくないという神秘の幹が黒いシルエットになって生命の木と呼ばれるのがふさわしい姿を見せていた。まさに宇宙の永遠を告げている。はるばるこの東アジアの果てから尋ねてきた甲斐があった。

<この稿未完>

 

 

鵜飼旅日記


長良川鵜飼

途轍もなく暑い日々が続いている。烈火のごとくいうと言葉があるが、この毎日は文字通り、烈夏そのものだ。毎朝のテレビニュースの冒頭には、決まり文句のように命の危険がある暑さに注意すべしと告げている。

日がないちにち、空調の効いた部屋に閉じこもっているとだんだんと社会から孤立して、とうとうは干からびてミイラになってしまうかもしれない。せめて陽が沈み、直射日光を浴びずにすむ夕方には、何処かに夕涼みに出かけたい気持ちになる。

歴史ある旧鎌倉街道すじの集合住宅に暮らして今年でもう二十年が過ぎたが、この界隈には伝統的な昔ながらの行事は残っておらず、八月の最終週末の納涼盆踊りくらいがわずかに残る例年の夏の催事だ。バスか電車に揺られて海辺までゆくけば、あちこちで花火大会があるけれど、行きはよいよい帰りは怖い状態で、押すな押すなの人混みと帰宅の交通機関は乗り切れないほどの超満員。行く前に気持ちが萎える。そんな思いをするぐらいなら少々遠くまで脚を運んでも心身ともに涼しさを味わえる場所に行きたい。

この思いはもうこのところの年中行事となってしまい、そういえば二年前にも暑い八月末に岐阜長良川に鵜飼い見物に出かけたことを思い出した。このときは上流の郡上(ぐじょう)に大雨が降って川が増水してしまい、川沿いの旅館に泊まったものの、鵜飼はまさかの中止になってしまって見物できなかった。ちょうど今は青春18きっぷの使える時季だから、のんびり鈍行列車に乗って、リベンジを兼ねて、また長良川の鵜飼い見物に行ってみるのはどうか。思案の結果、思い立ったが吉日と即、実行することにした。

乗り鉄切符

八月二日(金)の未明、最寄り駅の始発列車に乗った。今回はJR中央線を乗り継いで岐阜まで行くことにした。

甲斐駒ヶ岳

今回の経路は、地下鉄の始発便(5:19発)に乗って、新横浜でJR横浜線(5:47着、6:04発)に乗り換えた。ここからが青春の旅が始まる。八王子(6:40着、6:57発)でJR中央線に乗り換え、高尾(7:03着、7:07発)、甲府(8:38着、8:50発)、塩尻(10:45着、10:49発)、中津川(12:54着、13:19発)、多治見(⒔:58着、⒕:22発)と乗り継ぎ、多治見からJR太多(たいた)線に乗り換えて、岐阜に到着した(15:33)。中津川は母の故郷、多治見には旧知の友人がいるが、今回は素通りした。

空が晴れわたり陽射しは強かったけれど、車内は冷房がほどよく効いていて快適だった。太多線は今回が初乗りだ。車窓の景色を眺めながら居眠りもせず、適度に忙しい乗り換えと乗り継ぎがあって、長時間のんびり旅とはいえまったく飽きがこない。途中、ほとんどの列車がワンマン運転だ。夏休みなので通学生徒の姿はほとんどなく、リュックサックを背負う乗客は我らと同じ乗り鉄の老若男女だった。残念なのは一ないし二両編成の車内にはボックス席がないことだった。弁当を食べるのも横一列の座席と対面の乗客の視線が気になって落ち着かない。

金色の織田信長像のあるJR岐阜駅

岐阜駅で列車を降りると、街は気温37℃。風はなく、たちまち汗が噴き出して、全身汗まみれだ。ずっと涼しい車中で過ごしてきた身には過酷すぎて、とても観光を楽しみながら、そぞろ歩きができる状態ではない。前回訪問した際は、駅から鵜飼の舟乗り場のある長良橋まで一時間かかけて歩いたのだが、今回は駅から岐阜バスに乗ってしまった。歩けば、道路からの照り返しもあって体感温度はおそらく40℃以上だろう。それこそもはや危険域だ。

バスの停車場は橋の上にあった。平日の午後遅くのせいか、人影はない。強い陽射しの下、橋から川端まで路上に焼き付いて塊のようになった影を引き連れて歩いてゆくと、泊まる宿「十八楼」はものの数分の、橋からすぐそばにあった。前回初めてこの地を訪れた時は、インターネットで名前の良さげな宿を適当に選んで泊めてもらったが、今回は、実家がこの近辺で飲み友達のMS氏にお勧めの宿を教えて貰った。彼女の実家は美川憲一の演歌で有名な岐阜柳ヶ瀬商店街でかつて履物店を営んでいた。岐阜駅から長良橋の中間くらいの場所だ。四十年近くまえになるだろうか、MS氏に依頼して実家から雪駄を購入させてもらったことがある。当時でも二万数千円した高級品の履き物だった。ずいぶんと分不相応な高価な買い物で、値引きはしてくれなかったと記憶している。その後、和服を着る機会がなくて、今も我が家の物入れのどこかに大事にしまってあるはずだ。急に決めたことではあったが、紹介してもらった宿に泊まる旨、前日の午後に、MS氏には知らせを入れておいた。

予期せぬ贈り物

「十八楼」は立派な温泉宿だった。現在の名前になったのが1860年だというが、それ以前から宿屋を営んでいたそうで、すでに160年以上の長い歴史がある長良川沿いきっての由緒ある老舗旅館だった。フロントで名を告げると、なんとMS氏のご両親から鵜飼訪問の記念品と岐阜銘菓「登り鮎」が言付けられていて、予想だにしていなかった贈り物に恐縮していまった。むかしの人は義理堅い。知らせたことでかえって気を遣わせてしまい、申し訳ないことをしてしまった。

渇水長良川

前回訪問時の長良川

案内された古風な和室のカーテンを開けて長良川を眺めると、前回とはどうも様相が異なる。水が極端に少ない。前回は緑の土手際まで水が溢れんばかりに満ちていた川の流れがまるでないのだ。川底が陽に晒されている。渇水である。なにやら不安な予感がした。心配になって受付で確認すると鵜飼は実施されるので心配ないとのことだった。ひと安心して入った鉄錆色の温泉が気持ち良かった。暑い日は温泉で汗を流すに限る。湯上がりはロビーで寛ぎがてら、食べ放題のアイスキャンディーとセルフサービスの白ワインを飲んで涼を取った。

夕食は早めに済ませ、宿から直接川原の船着き場に出て宿の屋形舟(借り上げか)に乗って鵜飼見物の予定だ。

道を隔てた別棟の倉を改造した食事所で夕食を食べた。料理はとっても美味しかった。盛り付けも綺麗で、献立も量も丁度よい具合だった。鵜飼見物の乗舟時間はおよそ二時間の予定で、舟には厠はないので、夕食の水分は控えめに、乗舟前に用は済ませおくように、と再三念を押されたので、食事の際は生ビールをコップ一杯飲むだけにした。

いざ出帆

夕闇迫る金華山

陽が沈むと川面には弱い風が吹いた。高齢の船頭と船首と船尾にひとりずつ若者のこぎ手が同乗し、若者が長竿を指す。一艘に二十人の鵜飼見物客をのせた舟はしずしずと川面に出た。今夜は二十隻以上の舟が出ると説明された。しかし、川の水が少ないので、鵜飼舟に随行して川を下りながら見物するのではなく、舟に乗って川岸から見学するという。この方式を何々・・・というと説明されたがよく聞き取れなかった。不吉な予感が的中だ。

川中にでた屋形船はすぐに岸辺に接岸して動かない。流れの少ない川中の水面を篝火を焚いた鵜飼舟が川下へと流れて行く。見物客はずらっと並列した舟に乗ってはいるものの川岸に停泊したまま鵜飼を遠目に眺める。期待していた鵜飼経験とはかなり違う。これなら川岸の桟敷で見物するのと同じだ。いったん川下に下った鵜飼舟が漁を終えて、戻り際に観光舟に近寄って仕舞いの諸作を見物させて、残念ながら鵜飼観光は終了した。

ぱちぱちと音を立て燃え上がる篝火から火の粉が舞う眼前で、流れに揺れる舟上での鵜匠の巧みな鵜をさばく所作や鵜が鮎を飲み込む様、飲み込んだ魚を吐き出させる様子など薄暗い遠目にはまったく見物することができなかった。物足りない鵜飼見物だった。まったく残念な鵜飼見物だった。宿に戻り、夜が更けて窓から夜空を見上げると星が綺麗に瞬いて見えた。夏の星は冬の星々と違ってキラキラと明るく華やいで輝いている。

翌朝も夜明け前から気温が高く、日の出とともに熱波が降り注ぐ快晴となった。日傘や帽子では突き刺さる陽射しを防ぎきれない。昨日同様、あるいは昨日以上に気温が上がりそうだった。これでは観光は無理だと判断して。早々に岐阜の街を離れることにした。

帰路はJR東海道線を乗り継いだ。岐阜を朝に発ち(8:22)、豊橋(9:37着、9:49発)、浜松(10:22着、10:25発)、熱海(⒔:04着、⒔:10発)、戸塚(⒕:12着、⒕:16発)とJRを乗り継いで、自宅には15時前に帰宅した。暑い夏の日だった。

なかなか思い描いた鵜飼には遭遇できない。観たければまた長良川に来いということなのだろう。二度目の正直の鵜飼見物もまた不発に近かった。

 

北海道の屋根、大雪山は花の山

梅雨入り間もない七月上旬、関東をはじめ日本列島は異常な熱波に覆われた。まだ本格的な夏にはほど遠いこの時期に40℃を超える厳しい陽射しは命に危機が及ぶほどの脅威だ。この分だと八月の最盛期の暑さはいったいどうなってしまうのか、すでに一日中エアコンをつけっぱなしの連日で、不安と不快で眠りの浅い日が続いている。

そんな関東を尻目に七月九日から三泊で北海道の屋根大雪山系に夏の花を愛でにトレッキングに出かけた。

f:id:darumammz:20240713061819j:image
f:id:darumammz:20240713061816j:image
f:id:darumammz:20240713061813j:image

この数年ずっと夏には大雪山を歩いている。春夏秋と見どころ、歩きどころに溢れた大雪山はヒグマに遭遇しないかだけが心配だけれど、たおやかな神々の遊ぶ庭(カムイミンタラ)に踏み込むとこの小さな躯体が大自然の一部に取り込まれて、不思議な陶酔感に満たされる。自らの存在が消えて宇宙と混然となる気がする。特に夏、聳り立つ岩肌の間や広々と広がる稜線に命の証を示す夏の花々に出会うと広大で無限な摂理を意識下に体感する。

義父母の眠る白老墓苑に墓参の後、一泊目は旭岳温泉の素泊まり施設(ケイズハウス)に泊まった。飲食の提供はないが、冷凍食品やレトルトフードを販売していて調理場には食器をはじめ調理用具が全て揃っている施設だった。持参した食材や食料を広々としたラウンジで自由に調理したり食べることができる。受付横の売店で買った冷凍チャーハンを人生で初めて食べたが想像以上の味に驚いた。これなら街中のラーメン屋よりうまいかもしれない。相部屋なのでラウンジで少しのんびりして、温泉に浸かって早々と就寝。

f:id:darumammz:20240713060636j:image

(個室もあるが今回はドーミトリに宿泊)
f:id:darumammz:20240713060639j:image

館内は土足禁止で玄関でスリッパに履き替える。知らずに土足で入ってしまい受付で叱られた。

広々として温泉浴室や露天風呂は気持ちがよかった。

二日目は始発のロープウェイに乗って旭岳中腹まで上る。今回は山頂を目指さず、裾合平に今が盛りのチングルマを見に行くことが目的だ。

 ポスターの写真によく写っている、ロープウェイ山頂駅そばの姿見の池を過ぎたあたりの群生地はまだ七月上旬なのにすでに花の盛りは終わっていた。例年より10日以上も早い。この温暖化のせいに違いない。

およそ2時間で中岳温泉手前の湿原に到着。ここが裾合平の終点だ。遠くの山麓にはヒグマがいてこちらを見ていた。チングルマはちょうど最盛期。一面に感動の白いお花畑が広がる。言葉を失う絶景だ。

f:id:darumammz:20240713065701j:image
f:id:darumammz:20240713065658j:image

雲が広がり陽射しを遮って気持ちの良いトレッキングができた。

ロープウェイで下山し、二日目は大雪高原温泉に移動した。ここに建つ大雪高原山荘に連泊して大雪山系北東部を縦走することが今夏の花の山歩きのもうひとつの目的だ。

ほぼ透明に近いが少しだけ白濁した単純酸性温泉の大雪高原温泉は秘湯の一軒宿。北海道らしいよく整備された綺麗な国道を逸れて砂利道の山道に入り、10キロメートル先の森に囲まれた山奥に位置する。実は以前(2018年8月)にも一度、今回登頂を目指す緑岳に登るつもりでここに来たことがある。その時は日帰りで山に登ったが、悪天候のなか途中の急斜面で強風とガスに遭遇して登頂を断念した。下山して温泉近くの沼巡りだけして泊まらずに日帰り入浴のみで帰った経験がある。今回はその時のリベンジとさらに緑岳から小泉岳、赤岳を経て銀泉台へ下るミニ縦走が予定だ。

下山は錦繍の秋に大混雑となることで北海道内でも有名な紅葉の名所である赤岳登山口の銀泉台から地元の道北バスの定期便に乗って層雲峡に行く。層雲峡で宿の小型送迎車に乗り継いで高原温泉に戻って二連泊する計画だ。

山荘には温泉目当ての一般客も多く、登山者は半分以下のようだった。

三日目は朝食をおにぎりセットに変えてもらい早朝5時前に歩き出した。晴れ時々薄曇りの絶好の登山日和の下、気持ちの良い爽快なトレッキングとなった。

f:id:darumammz:20240714110900j:image
f:id:darumammz:20240714110917j:image
f:id:darumammz:20240714110913j:image

(左側の頂が緑岳、松浦岳の別称もある)
f:id:darumammz:20240714110910j:image
f:id:darumammz:20240714110904j:image
f:id:darumammz:20240714110907j:image

歩き始めて1時間で第一花畑、そこから十数分で第二花畑を通過。あたりは前日の旭岳裾合平に匹敵するほどの高山植物の花々に溢れていた。眼前には大きな緑岳がどっかりと鎮座している。ここから標高差500メートルを一気に登らなければならない。

花畑からハイマツ帯を抜けるとこの日唯一の厳しい登りだ。前回引き返したのはイルカに似た岩があった地点だった。その時はここが頂上直下だと思ったが、さらに頂上まではここから30分以上の厳しい登りだった。

緑岳山頂(松浦岳2020m)には約3時間で着いた。眼前に白雲岳と山腹の赤い屋根の避難小屋が見えた。遠く石狩山脈の山々は霞んでいて大雪大縦走路のメインルートに並ぶトムラウシ岳十勝岳は雲の中だった。ここまでひとりの登山者にも出会わなかった。

f:id:darumammz:20240714191534j:image
f:id:darumammz:20240714191529j:imagef:id:darumammz:20240714191532j:image

緑岳から小泉岳に続くなだらかな砂礫の山上はまさにお花畑そのもの。大小様々な花が、白、赤、黄色、青、紫と鮮やかに短い山上の夏を彩る。ウルップソウ、チョウノスケソウ、エゾキンレイカ、エゾツツジ、エゾノツガザクラ、マルバシモツケ、イソツツジ、アズマギクなど本州では眼にする機会のない固有種や希少で多彩な高山植物の花の饗宴が続く。初めて目にする花も多く、名前がわからずに図鑑を持参するべきだったと反省した。

今回の縦走路の最高峰である小泉岳(2158m)の標識を過ぎ白雲岳との分岐の標識の建つ小泉分岐で大休止。宿で作ってもらったおにぎりや出発前にお湯を入れて準備しておいたアルファ米にふりかけをかけて食べた。山上のバナナもうまい。

ここまで僅かに2、3人の登山者しかすれ違わなかった静かな登山道も分岐のここまで来ると赤岳から白雲岳を目指す日帰りの登山者や黒岳から北海平や白雲避難小屋をへて銀泉台に下る縦走者が次々と通過して行く。

ほぼ平坦に近い砂礫の道を歩き赤岳には10時30分過ぎに到着。以前に黒岳石室に泊まってやはり銀泉台に下山した時に通過したことがある。ピークというよりは通過点の感じの場所だ。雲が昇ってだんだんと景色が狭くなった。休憩せずに標高差500メートルを一気に銀泉台へと下る。途中、東平、奥の平、駒草平と一部に平坦な場所もあるが、登山道は急峻で険しい三時間の下り。

(ピンクのエゾノツガザクラの群生)

登山道の周囲は白い花をつけたナナカマドの群生だった。これが一面に紅葉すれば見事だろう。谷から雲が湧いて遠景は見えなくなった。チングルマをはじめ登山道脇には花が溢れている。

駒草平手前の平坦地には駒草が群生していた。一面淡いピンクに染まっている。途中、いくつか小さな雪渓をわたる。今年は早く夏がきてしまい雪渓にのこる雪は少ない。この登山道は下るのも大変なので、登るには相当の覚悟がいる。駒草平を過ぎるとこのコースで一番つらい下りとなった。

(なかなかこれだけの駒草の群生を目にする機会はない)

途中に第二花園、第一花園と名の付いた斜面があるが、花はわずか。それまでの山道の沿って群生する花々に比べると花園というには寂しい感じだった。ここら辺は紅葉の名所らしいが、昔の夏には一面に花が咲いていたのだろうか。

銀泉台には13時30分に着いた。全行程ほぼ予定通りの八時間半で大雪山北東部ミニ縦走を完遂できた。しかし、最後はつらい下りの三時間だった。特に最後の最後一時間の下りが厳しかった。これが限界だ。

途中の予期せぬトラブルも想定して、余裕を持って朝早く出発したので、道北バスの定刻の発車までは二時間以上待たなければならなかった。以前に来たときはバス停近くに樹木がたくさん生えており、日陰のベンチで涼むことができたが、今回はあたりはすっかり駐車場に整備されてしまいベンチは日の当たるバス停の看板前だけになっていた。ここでお湯を湧かして塩分補給に味噌汁を飲み大休止。そのあと傘を差して暫しの昼寝で時を過ごした。

下山途中で大きなザックを背負って登ってくる同年代と思われる老男女ペアの何組かとすれ違った。たぶん白雲避難小屋のキャンプ場を目指しているのだろう。この年代になると元気の具合は個人差が大きくなる。おそらく15キログラム以上はあるだろう重い荷物を背負って、この険しい登山道をのぼれる強靱な足腰をもつ高齢者がきっと健康寿命の頂点にいる猛者達なのかもしれない。我々ペアはもう今回ぐらいの下りが限界だ。あるいはこれが最後の「縦走」になのかもしれないと思う。

定刻15時30分に出発したバスはおよそ一時間で層雲峡バスターミナルに到着。待っていた大雪高原山荘のマイクロバスに乗り継いで17時に山荘に帰着した。

そうそうに掛け流しの温泉で汗を流し、夕食に生ビールで乾杯して今回の山旅は終了した。

見た目は豪華な夕食メニュー。日替わりで初日と二日目の2種類があり、繰り返して提供されるようだ。この他に陶板焼きと小鍋に炊き立てお釜ご飯が付いているが、お米は硬く料理の味はちょっと期待はずれ。

朝食はバイキング。香りはカレーだが味のない野菜カレーにびっくり。温泉付き山荘だと思えば贅沢は言えない。久しぶりに野菜サラダを山盛り食べた。こんな山奥の宿なのだから朝夕の食事のメニューは奇を衒わずに普通でいいのにと心底から思った。これもいい思い出になるだろう。

 

 

 

 

 

北東北は花盛り

梅雨入りまじかの先週、秋田の乳頭温泉郷黒湯に湯治に行った。

五月の連休に予約してあったが、風邪を引いてしまって中止したので、リベンジだ。

黒湯には春と秋の年二回行くことが多い。

今回は初めて田沢湖畔を車で一周した。北東北は観光客が少なくてどこも静かだ。

f:id:darumammz:20240628105626j:image

快晴に恵まれた。

今回は昔からの旅仲間のKM氏を誘っての湯治旅行だ。
f:id:darumammz:20240628105629j:image

朝昼晩と白い温泉に入ると長旅も気にならないほど開放感に浸れる。平日だったので宿はガラ空き、お風呂は貸切状態だった。女性陣二人は混浴の湯に入りに行ったが、残念ながら(?)ほかに客はいなかったそうだ。

f:id:darumammz:20240628110432j:image
f:id:darumammz:20240628110435j:image
f:id:darumammz:20240628110418j:image
f:id:darumammz:20240628110438j:image

f:id:darumammz:20240629084833j:image

天気がよかったので、二日目には秋田駒ケ岳に登り、三日目は八幡平をトレッキングして初夏の花を満喫した。

秋田駒の頂上直下の阿弥陀池周辺では黄色いミヤマダイコンソウの大群落が見事。ニッコウキスゲはまだ咲いていなかった。焼森の砂地には駒草がチラホラだった。最盛期にはまだ早かった。お昼は池のそばに建つ避難小屋でカップ麺とおにぎりを食べた。山で頬張るおにぎりは格別に美味しかった。

花の種類は八幡平の方が多い印象だった。大きなシラネアオイの株やゴゼンタチバナキヌガサソウが見事だった。今年はコバイケイソウの当たり年のようだ。
f:id:darumammz:20240628110415j:image

f:id:darumammz:20240629180237j:image

f:id:darumammz:20240629180306j:image
f:id:darumammz:20240628110427j:image
f:id:darumammz:20240628110430j:image
f:id:darumammz:20240628110424j:image

いつものごとく自炊の湯治旅、食事は秋田名物きりたんぽ鍋に、我が家定番の自家製ナポリタンだった。

f:id:darumammz:20240629090121j:image

f:id:darumammz:20240628130929j:image
f:id:darumammz:20240628130926j:image

四日目の帰りに盛岡で有名な神子田(みこた)朝市によって昔懐かしい醤油ラーメンを食べた。お土産に柔らかそうなほうれん草を買って帰って、常夜鍋にして食べた。

いつ行っても帰るとまたすぐに行きたくなる北東北はまさに心の故郷だ。

巨大ハマグリをゲット

今日は逗子から鎌倉まで浜辺を歩いて材木座海岸で漁師さんが売っている地物の巨大ハマグリをゲット。

f:id:darumammz:20240608195345j:image

夕食に網焼きで食べたらそれだけでお腹いっぱいになりました。湘南の海恐るべし。

[f:id:darumammz:20240608195410j:imagef:id:darumammz:20240608195353j:image

おかげで酒がうまい。

梅雨入り間近の食事事情

雨が降った翌日は快晴。梅雨間近の気まぐれな天気が続いている。

この一週間何を食べたか写真を撮ってみた。

5/28(火)朝 卵かけご飯に納豆

f:id:darumammz:20240604093104j:image

昼 ローソンの唐揚げ弁当(写真なし)

同 夜 ガパオ・オムレツとアスパラとトマト

f:id:darumammz:20240604093201j:image

5/29(水)朝 茶漬け

f:id:darumammz:20240604093304j:image

同 昼 自家製ピザ

f:id:darumammz:20240604093334j:image

同 夜 カレーの干物とガパオ・オムレツ

f:id:darumammz:20240604093402j:image

5/30(木)朝 鰯トースト

f:id:darumammz:20240606203418j:image

昼 ファミマ調理パンと飲むヨーグルト(写真なし)

夜 手羽先の網焼き

f:id:darumammz:20240606202152j:image

5/31 (金)朝 鰯トースト大葉添え

f:id:darumammz:20240606202648j:image

同 昼 蕎麦と空豆

f:id:darumammz:20240606202303j:image

同 夜 手羽先照り焼きと空豆とチリコンカン

f:id:darumammz:20240606202139j:image

6/1(土)朝 あんぱんとトーストにサラダ

f:id:darumammz:20240604110645j:image

同 昼 ちんご飯に鰯と蕗と筋子

f:id:darumammz:20240605040853j:image

同 夜 カルボナーラ(失敗)と骨付きラム肉のローストジャガイモ添え

カルボナーラは意外と難しい)

f:id:darumammz:20240604104554j:image

6/2(日)朝 自家製ジャム(キンカンと青梅)添えトーストとチリコンカン

f:id:darumammz:20240604110835j:image

同 昼 蕎麦と鰯

f:id:darumammz:20240605040826j:image

同 夜 焼き鳥と空豆と燻製チーズ

f:id:darumammz:20240604104658j:image

6/3(月)朝 納豆トーストと野菜サラダ

f:id:darumammz:20240604105057j:image

同 昼 カップ麺とあんぱん(写真なし)

同 夜 豚肉豆腐鍋と蒲鉾とトマトのバジル添え(カペリーノ・ロマーノチーズ)

f:id:darumammz:20240604102036j:image

6/4(火)朝 ベーコンエッグトーストとブロッコリー

f:id:darumammz:20240604095445j:image

結局この一週間まったく外食なしだった。

この一週間はずっとひとりご飯。さて、今夜は何を食べようか。

 

久し振りの尾瀬ヶ原散策

今年の台風一号がフィリピン周辺で発生して、日本列島では早々と線状降水帯の発生が予想されている。各地の水害が心配な状況だ。例年の事とはいえ、大きな被害が出ないことを祈りたい。

そんななか先週の金曜日はいい天気になる予報だったので一念発起。ずっとご無沙汰の尾瀬ヶ原散策に行ってきた。実に二年ぶり。

例年の如く早朝4時半に家を出て、尾瀬ヶ原の登山口、戸倉の駐車場に向かう。

出発後4時間の8時半に到着したが、駐車場は満車、第二駐車場も満杯で、戸倉スキー場に向かう。この駐車場はまだ三分の一程度の駐車率だったが次々と車が駐めに来る。

鳩待峠までのバス代は1300円に値上がりしていた。ずっと以前は千円しなかったのにご時世を感じた。

峠は工事中。鉄筋の新たな施設二棟を建造中だった。でも登山口の看板前は観光客や登山者で大混雑だった。

今回も我が家の定番の日帰りコースで尾瀬ヶ原を散策。

f:id:darumammz:20240528085450j:image

山の鼻のキャンプ場では朝はまだ数張程度だったが、午後にはソロテントが所狭しと場所をとって立派なテント村ができていた。山の鼻に今年はツバメがいない。以前に来た時にツバメ避けの工事をしていたからそのせいだろうか。

f:id:darumammz:20240528080723j:image

f:id:darumammz:20240528080737j:image

晴天だった。至仏山の残雪が少ない。自然保護の目的で、とうとう今年の無雪期は至仏山の登山が禁止になってしまった(7月以降はどうなるのか不明)。至仏の頂はもう幻のピークになってしまうのだろうか。山の鼻から牛首を経てヨッピ橋を越えて東電小屋で昼食。持参の火器でお湯を沸かしてコーヒーを飲んだ。東電小屋にはツバメが飛んでいた。

f:id:darumammz:20240528080347j:image

お昼休みを終えて、ヨッピ橋に戻り竜宮を目指すのが定番のコース。

今年の尾瀬ヶ原は水が少なく例年の風景とはちょっと違う印象だった。一面が枯れ野の状態だった。

水芭蕉はすでに盛りを過ぎてしまった様相だ。それでもタテヤマリンドウは当たり年であちこちに群落を作って咲いていた。なかなかお目にかかれないヒメシャクナゲもちらほら咲いていた。今回初めてカエルの姿を見た。池塘で盛んに鳴いていてもこれまで一度も姿を見られなかったが、たまたま木道の下に這い出してきた一匹を目撃した。体調は7、8センチくらいで濃い焦茶色だった。一瞬だったので写真は間に合わなかった。

池塘にはたくさんイモリが泳いでいた。

東電小屋近くの湿原ではいつもに比べてリュキンカが少なかった。竜宮あたりには大きな株のリュウキンカが木道にそっていつものように咲いていた。水芭蕉はもちろんだけれど、尾瀬ヶ原の花のもう一つの見どころはリュウキンカの群生だ。力強く輝く黄色を見ると元気を貰える気がする。

竜宮から山の鼻に戻る木道はツアー客で長蛇の列。

f:id:darumammz:20240528080014j:image

最後の鳩待峠へ登りは辛かった。それでも標準タイムの50分で辿り着いた。

鳩待峠では山小屋の建て替えで巨大クレーンが鉄骨を吊り上げていて

周囲の景色とまったく不調和だった。

戸倉スキー場駐車場には16時前に到着。十分日帰りできる時間だったけれどもう歳なので戸倉温泉の温泉民宿〈三角屋根が目立つ「尾瀬かもしか村」(一泊二食付き8000円)〉に一泊して土曜日に帰って来た。手打ち蕎麦つきの宿の夕食はボリュームが多すぎて半分くらい残してしまったのが、申し訳なかった。蕎麦はとても美味かった。また食べたい。帰りは翌朝の民宿を7時半に出発してわずか三時間で自宅に着いた。

f:id:darumammz:20240528091058j:image

25年前の至仏山頂上での記念写真(みんなとってもスリム!)