空襲警報

朝、NHKを見ていた6時2分に、生まれて初めての空襲警報を経験した。
北朝鮮がミサイルを発射したので、東北や北海道の住民は安全な建物か地下への避難を勧告するものだった。

この地は被弾予想地から離れているが、人生で初めての空襲警報にはうろたえるばかりだった。
着弾の可能性のある地域では、どこが安全な建物で、逃げ込める地下街がどこなのか混乱しただろう。
そもそもそれで安全が確保されるのだろうか、という疑問が残る。
太平洋戦争末期、沖縄では一般市民が逃げ込んでいたかもしれない洞窟に
一網打尽の火炎放射砲が放たれた映像が脳裏を離れない。
すでに70年以上が過ぎた第二次世界戦争の敗戦から、
戦争はかつての愚かな歴史的な遺産であって、戦争こそは悪であるとの
認識が常識となっている現在の日本社会がある。
侵略者の主張が真実かどうかは別にして、私たちの主張はどこでなにを間違えたかと
冷静に分析し国民の一人ひとりが共有することが重要だ。
思考は単純で明快な未来志向であるべきで、
自分たちの命の重さをだれが守ってくれるのかを真摯に考えなくてはならないはずだ。
過去の歴史が、人間は、いつでも狂気の生き物に豹変できることを物語っている。

世界が今、変わろうとしている。
不思議の世界に迷入した、「自分たちこそが、ファースト」を掲げるポピュリスムの集団が共感を産む社会は危険だ。
人種差別や宗教弾圧が、ふたたび目の前の課題となることが危惧される。
人間は戦争と略奪と差別と弾圧の歴史を繰り返してきた、ある意味で単純な生き物である。
いい悪いは別にして、科学や人工知能がいかに進んでも、人間の本質はおそらく変わらない。
人間がいつでも特殊であると考えれば、生物の普遍性のなかにあることに矛盾はなく、連鎖を認識すれば違和感はない。
だからこそ知性が優先されなければならない。
夢のような誤解や思い込みではなく、リスクを勘案した社会が必要だ。
日本では、水と空気と安全は無償で提供されると誤解されいる。
純粋な精神の自立が必要なのである。