インド古代史の研究

人類最古の文明として、エジプト文明メソポタミア文明インダス文明黄河文明を世界四大文明と呼ぶのは、日本や中国だけで、世界的にはこの四大文明のみを特別視する考え方はほとんどないらしい。

とはいえ、実際、中学や高校時代の歴史や地理の授業で人類が築いた文明の始まりとして四大文明について習った記憶がある。調べてみると、四大文明という呼称は、そもそも日本で生まれたものらしいことがわかった。この概念の起源には2説あるようで、そのひとつは西欧の植民地支配の毒牙に晒されて、日本に亡命していた中国清王朝の政治家、梁啓超が1900年に唱えた「二十世紀太平洋歌」のなかで「地球上の古文明の祖国に四つあり、中国、インド、エジプト、小アジアである」と述べたことを起源とするもの。もう一つは、江上波夫という日本の考古学者に由来するもので、江上本人が「四大文明」は自分の造語だと主張したとされ、「四大文明」という語句の初出が確認出来るのも、江上か携わった1952年発行の山川出版社の教科書『再訂世界史』だとされているものだ(ウィキペディアから引用)。

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私たちが知っているインダス文明という、紀元前2500年頃から約千年近く、インド、パキスタンインダス川およびガッガル・ハークラー川(今は干上がり涸れた川になっている)周辺に栄えた文明は、現在ではその地を離れて南インドを中心として暮らすドラヴィダ人によって作られたもので、考古学上は「ハラッパー文化」と呼ばれ、パキスタン・バンジャブ州のハラッパーが標式遺跡(この時代の様式の基準となる遺跡)となる文化・文明を指している。もっとも自分はこの旅行を体験するまでインダス川インド亜大陸のどこに位置するかさえ知らなかった。おなじくガンジス川のこともよく知らず、これらがこの亜大陸の比較的北部に源を持ち、しかもこの二つに大河がかなり離れた場所に位置することを旅行中に初めて知ったのだった。二つの大河の歴史的意義の違いなど全く知らなかった。恥ずかしくも無知である。

ロータル遺跡

ロータル遺跡遠景

ロータル遺跡の巨大な港湾施設(あるいはドック)

文明や文化が突如として発生することは考え難く、その先駆けとなる歴史があると考えるのが常識的な理解だろう。インダス文明ハラッパー文化)は、さらにそれ以前の新石器時代(紀元前7000年または6000年ごろに始まった人類の生活様式)の中頃から後期にかけて西方から移動してきたドラヴィダ語を話す人々(ドラヴィダ人)が築いたパキスタン西部の丘陵地帯に位置する「メヘガル遺跡」に起源があるようだ。およそ紀元前3500年頃の金石併用時代のメヘガル遺跡の後期の層から出土した青銅器や印章、彩分土器はこの文化がインダス文明に受け継がれたことを示唆するという。メヘガルの遺跡は紀元前2500年ごろ放棄され、そののち突如として高度なインダス文明が興ったことから、メヘガルの住民がさらに移動して、インダス文明の担い手になった可能性があると指摘されている(水島司著「一冊でわけるインド史」(2021年、河出書房新社刊)」から引用)。

今回の西インド旅行ではグジャラート州のロータル遺跡と大カッチ湿原に忽然と姿を現すドーラービーラ遺跡の二つのインダス文明遺跡を訪ねた。この遺跡群は現在はパキスタン領であるこの文明最大の規模であるモヘンジョダロ遺跡や上述の標式遺跡のハラッパー遺跡の比べるとやや小規模な遺跡だが、日干しレンガや焼きレンガで作られた支配者層の暮らした城塞部や市民の住んだ住居跡は今から4500年前の古代人の営みを偲ぶには十分に鮮明な遺跡で、おそらく当時は緑豊かな豊穣の地であったものの現在では乾いた砂地となっているこの地に立っていると悠久の昔に思いが運ばれてゆく。連綿と繋がってゆく人間の生き様に感動を覚える貴重で記憶に残る訪問だった。

ドーラビーラ遺跡で発見された印章の拡大レプリカ

インダス文明は都市文明の形をとり、上水や下水などの水の管理に関する高度な施設の設営が特徴としてあげられる。また沐浴施設の設営も後のインド文化に大きな影響を残すもので、この習慣は現在のインドにおけるヒンズー教徒(ヒンディー)の沐浴習慣へと引き継がれていると考えられている。ロータルもドーラビーラ遺跡も交易都市として栄え、メソポタミア文明やペルシアと盛んに交易がなされており、インダス文字が刻まれた印章、象牙細工や装飾品などが各地で発掘されている。陸路に加えて、おそらく運河や河川を利用した水運技術も発達していたのだろう。

ドーラビーラ遺跡

ドーラビーラ遺跡浄水場

ドーラビーラ遺跡城塞内の井戸

この文明・文化は紀元前1800年頃から衰退しはじめおよそ紀元前1500年頃には姿を消した。滅亡の原因は地殻変動によるインダス川などの河川の流域の変化や気候変動による肥沃な大地の乾燥化、砂漠化などがあげられている。そして紀元前1500年頃から東ヨーロッパのギリシア系を祖先とする肌の色が白いアーリア人がこの地に至り、旧来の文明・文化と融和を図りながら、あるいは旧来の人々を駆逐・排斥しながら、新たな文明へと移行していったとされる(辛島昇「インド史ー南アジアの歴史と文化」(2021年、KADOKAWA刊))。

インダス文明のことを調べていて、面白いことを知った。文明や文化はその遺物や遺跡によって当時を物語る。特に文字がその時代を現代に伝えるもっと有効な手段である。残念ながら、印章に残るインダス文字は短文で、他の言語と同時に併記された遺品がなことで解読は進んでいない。最近のAI技術の進歩によって、近いうちに新たな歴史の扉が開くことが期待さている。インダス文明はおよそ4500年前の文化であるが、一方、我が国の青森県外ヶ浜にある太平山元1遺跡からは今から1万6500年前という途方もない古代に作られた世界最古に類する縄文土器が発見されている(「日本史&世界史ビジュアル歴史年表ー一冊でわかるー増補改訂版」(2023年、メイツユニバーサルコンテンツ刊))。この遺跡は以前に住んでいた弘前市内から車で一時間半足らずの場所だ。ユーラシア大陸の東の果てに位置するこの日本にもインダス文明の誕生以前の太古から固有の文化があったのだ。それもすぐ身近に、である。

ロータル遺跡で作業をする人たち

文字をも持たなかった古代人も言葉で意思を伝えていただろうし、明日香の石舞台を除いて石の文化遺産の乏しい日本では人の往来を今に伝える物証はなかなか見つからないだろう。

現在の日本列島に人間が移住してきたのはおよそ4万年前と推定されており、この世界最古の土器のように、今後も偶然の発見によって現在の日本人へと繋がる人の営みの起源が新たに発見されることがあるかもしれない。人は偶然に生まれ、そのうちの一部のみが偶然に生き残ったのかもしれないが、そこには必ず社会が生まれ、文化が築かれたはずである。いろいろと調べているうちに、モノや歴史には必ずその起源が存在することを改めて知る機会となった。瓢箪から駒ではないが、ちょっとだけ賢くなったように感じて、今更ではあるが、小さな驚きと感動を覚えたのだった。