紀伊半島一周青春18普通列車の旅

いよいよ今日で令和5年度が終わる。

新たな門出を迎え前途洋々な未来へと旅立つ人も、長年の仕事を一区切りさせて人生の後半へと歩み出す人も、思いはさまざまだろう。

孫のカンくんは来週から家を離れ長野で寮暮らしをはじめる。15の春だ。

昔一緒の職場で働いたAY氏は早期退職して第二の人生をはじめる。当面は庭いじりと父親の介護に精を出す予定だそう。長年国家公務員として要職を勤め、還暦を迎えて定年退職したS Y氏は若者たちに混じって、まったくいちから職業訓練の研修生活に踏み切る。そのバイタリティに圧倒される。

もうすっかり自由人となってこれと言った変化のない我が家の年度末は年中行事にしているJR青春18切符を使って、恒例の鈍行旅行に出かけた。

自宅を三月二十六日朝の5時に出発、戸塚駅でJRに乗って、沼津、静岡、浜松、名古屋、亀山と乗り継いで 14時6分に初日の宿泊地、松阪に着いた。途中、列車の中には同好の士と思われる老若男女の旅行者を何人も見かけた。

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宿に入るには少し時間が早すぎるので、市内をぶらぶら散歩した。人影はまばら。静かな町並みを縦貫する街道の十字路には熊野路を示す大きな石碑があった。松阪城跡にも人はいなかった。天守閣跡からは町が一望できた。高層ビルは見当たらない。

泊まった宿の向かいの町角には、江戸時代に綿織物で財を成した豪商で、後々日本最大の財閥となる三井家発祥の史跡があった。まったく知らなかったが、日本経済は松阪の地を基盤として始まったということらしい。字は違うが、上野広小路には今も松坂屋デパートがあるし、かつては銀座や横浜の伊勢佐木町にも同名のデパートがあった。こちらは松阪ではなくて京都近江が発祥の由来の地のようで、この松阪の町とは直接の縁はないようだ。紛らわしい。

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松阪名物といえば、なんと言っても牛肉である。松阪牛のすき焼きで超有名なレストラン、和田金は定休日だった。よく覚えていないが四十年近く前に一度ここですき焼きを食べた記憶がある。その時は古民家のような、今にも倒壊しそうな風情のしもた屋の店構えだったように思う。並びで、やや松阪城に近い料理旅館小西屋に宿泊した。この宿の松阪牛のすき焼きには圧倒された。意地汚くも欲を出してもう少しで気分が悪くなりそうなほど牛肉を食べ過ぎてしまった。もうしばらくは牛肉を食べなくてもよい心境だ。

二日目の三月二十七日は、松阪から新宮で乗り継いで那智駅まで行き、路線バスに乗り換えて定番の熊野古道を大門坂の石碑から杉並木を上り、熊野大社をお参りした。すぐそばの青岸渡寺ではお賽銭を投げ入れ、那智の滝まで下って、熊野の御神体である荘厳な滝を拝礼して、お土産屋の片隅にある出店で関西風うどんを食べた。そのすぐそばの那智滝前の停留所から昼過ぎの路線バスに乗り宿泊地の紀伊勝浦に辿り着いた。

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この日は有名な勝浦温泉ホテル浦島に泊まった。ずっと昔から一度は訪ねてみたいと思ってきた施設だ。勝浦港にある観光客相手の足湯がある桟橋から送り迎えの渡し船「亀号」に乗れば、ものの5分もかからずに宿の正面玄関に行けるが、時間が早すぎてまで運行しておらず、代わりに宿の出迎えマイクロバスに乗って大回りしてホテルにチェックインした。亀号には帰りに乗せてもらえた。

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ホテル浦島マップ

ホテル浦島は迷路のような巨大な建造物の温泉宿だった。港に面した小高い岬全体がホテルの敷地だ。面積は東京ドーム⒋.5個分もある。ホテルの館内を探索しても端からはじまでゆうに30分以上がかかる。屋上は庭園につながっていて稲荷神社が祀ってあった。でもこの日が最後で神社は三重県内の他の場所に移転すると書いてあった。きっとお賽銭が集まらなくなったからだろう。憧れの二ヶ所の洞窟温泉は最高。波しぶきがかかる海辺の露天風呂は感動的だった。写真撮影禁止が残念だ。夕食のバイキングは、これと言った特徴のないお値段それなりのB級クラスだったが、高齢者にはこれで十分だった。名物は新鮮な鮪の刺身だ。ここで取れるマグロはビンチョウとキハダらしい。先程マイクロバスに乗った勝浦港にはマグロ漁船と思われる小さな船がたくさん停泊していた。

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三日目の三月二十八日は紀伊勝浦駅から列車に乗り、紀伊田辺、御坊、和歌山と乗り継いで、和歌山市駅前のホテル(フジ第二ホテル)に泊まった。和歌山城へは歩いて十分。徳川家直轄の立派な石垣が風情を成す城郭を歩き、コンクリートで再建された和歌山城天守閣に登ると市内が一望だった。広い城跡は桜祭り直前でライトアップが始まる日だったが、まだまだ桜の蕾は硬かった。

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四日目(三月二十九日)、早咲き桜で有名は古刹、紀三井寺に脚を伸ばした。ここには和歌山県の桜の開花の標準木があったが、蕾ばかりで、まったく開花はなし。すぐそばにいた桜見物に来ているらしい地元の男性に声をかけたら報道関係者で開花状況を取材に来たという。それでも、りっぱな金色の千手観音のある境内にはすでに三分咲きの株もあった。

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長い階段を昇った境内には展望所があり、すぐ目の前の海が眺められた。遠方に雑賀岬が見えた。ここは日本のアマルフィーと呼ばれる場所だ。下調べもないまま、せっかくなので脚を伸ばしてみることにした。路線バスに乗って揺られて行くと、終点だと思っていた目的地を通り越してしまい、乗っていたバスはそのまま和歌山市駅まで向かってしまった。結局、降りそびれて出発点に戻ってしまった。

和歌山市駅からは南海電車の特急電車に乗り込んだが、乗り換え駅である泉佐野の手前で車掌さんに座った席が有料の指定席だと言われた。普通車に戻って数分で乗り換えした。まったく無賃乗車に近い。どうも空いていて変だと思ったのだ。

昼前に関西空港に着いた。帰りは電車ではなくて空路で羽田に戻る。初めて訪れた海に浮かぶ関西空港は想像と違ってずいぶんと小さな空港だった。早めに空港について、空港探索をしようと企んでいたが、まったく見物するところがない。当てが外れた。フードコートの入れ込みもオープンスペースで外国人(西洋人)で一杯だった。羽田や成田のような展望デッキもない人工島の空港はあまりに期待はずれの小規模でがっかりした。

飛行機が遅れて羽田についたのはもう17時半過ぎになり、自宅には19時前に着いた。春の恒例行事はこれで終了した。関東地方に戻った途端に花粉症が再発した。