アラスカ旅行_アンカレッジと近郊

アラスカ州は、アメリカ合衆国第49番目の州である。
今から150年前の1867年、ちょうど日本の明治維新の前年に当時のロシア帝国からアメリカ政府が国家予算の3分の1にあたる720万ドルで購入した飛び地だ。
広さから言えば破格の安価とはいえ、なぜアメリカ政府は世論の反対を押しのけてアラスカを買ったのかはよくわからない。
当時は豊富な鉱物資源は未知だったようだし、軍事的な意味もなかった。これから調べてみることにする。
ちなみに合衆国50番目の州がハワイ州であり、太平洋戦争に敗戦した日本を51番目の州するという、笑えない計画もはあったらしい。
日本の4倍の面積に、鳥取県とほぼ同じ約60万人が居住する。
このうちの約半分の30万人ががアラスカ最大の都市、アンカレッジとその近郊に住んでいる。
以前は欧州に向かう航空便の給油基地として日本からの直行便が頻繁に飛来したけれど
今では直行定期便はなく、日本からはホノルルやシアトルで飛行機を乗り継ぎ、20時間以上かけないと訪れることができない遠い北の町になってしまった。
今回の成田からの団体旅行チャーター便ではわずか6時間半足らず、ほとんどハワイに行くのと同じ時間でこの地に降り立つことができた。
星野道夫は講演で(講演集「魔法の言葉」)、初めて訪れるのであれば紅葉(黄葉)の8月下旬から9月初旬がよいと繰り返し述べている。
この時期が、まじかに迫る冬を控えたツンドラの美しい紅葉・黄葉とオーロラが見ることができ、観光には最適の季節だと推奨している。
晩秋のこの地の夜はダウンの上着を羽織ると丁度よいくらいの気候だった。
碁盤目に区画されたダウンタウンを歩いた印象では、北海道の帯広をだだっ広くした感じの街だった。
違いは巨大な高層のビルが建ち並ぶことと表示がすべて英語であること、さらに巨漢の肥満男女が多いことくらいだ。
それでもアラスカ州の住民にとってはこの町は東京の新宿や渋谷に相当する大都会なのだそうだ。
その意味はアラスカ鉄道に乗ってアラスカの中央部分に行った後になってわかったような気がした。


(海から見た町の全貌)

(アラスカの川には5種類の鮭が遡上する)


アラスカには三種類の人間が住んでいるという。
かつてのゴールドラッシュの時代にのように一獲千金を夢見て流れ着くアメリカ人、現代文明と都会暮らしに憔悴し安らぎを求めて移住する白人、そして太古の昔からこの地に住む先住民族達だ。

アラスカというと極寒の不毛の大地をイメージするが、実態は豊富な地下資源や北米一の油田を持ち豊かな経済基盤に支えられている土地なのである。
このため消費税の制度がない。これは行くまで知らなかった。
先住民には手厚い補償が実施されている。反面、彼らは深刻なアルコール中毒と自殺問題に直面している。
星野道夫の多数の著作にもこの事実は何度もでてくる。
物乞いは州の法律で禁止されているそうだが、先住民かどうかは不明だけれど有色人種が街角に蹲って物乞いをする姿を見かけた。
幸福と悲嘆の分かれ道がどこにあるのかが気になった。

市内観光では、自家用の水上飛行機が頻繁に離着陸するフッド&スピナード湖、1964年3月に起きたアラスカ巨大地震のあとをとどめる地震記念公園、鮭の養殖場、歴史博物館などを訪ねた。
ガイドの話では、アラスカでは自家用飛行機が身近な乗り物で中古であれば自動車より安く手に入るとのことだった。
いつエンジンが止まるのかもわからない中古のロートル飛行機に乗る勇気はないけれど、
小学生ですら自家用機を操縦している日常を聞くと、命は運任せ、それはそれでいいような気がした。
この地の最初の昼食はそのものずばりの49th STATEという地ビールを扱うビヤホールで、塩辛いチャウダー、オヒョウ(ハリバット、カレーの一種)のフライを挟んだバーガーと大盛りのポテトフライだった。
この旅行の食事についてはまとめてどこかに書く予定なので
こここではメニューだけを書いておくけれど、今回の旅行で食べた食事のなかでもっともまずかったのがこの昼食だった。
一泊目は郊外のGirdwoodにある立派なホテルアリエスカに泊まった。
すでに売却されて経営者が変わっているが、西武グループが建設した北欧風(?)の観光ホテルだ。
いかにも昭和の日本人が考えたと思われるロビーの上の白熊やオーロラを再現した天井のディスプレイには思わず笑ってしまった。





ここで大きな波乱があった。
夜は敷地内に設営されたロープウェイに乗って向かいの山上のレストランで夕景を眺めながらの夕食の予定だが
ゴンドラの乗りこんだ直後に強風が吹きだし、長く待たされた挙句ロープウェイは運休になってしまい絶景を眺めながらのディナーはキャンセルになってしまったのだ。