誰にでも幼少期や青春がある。あといくつ寝るとお正月と歌ったのはいつの頃までだっただろう。この歳になると明日の朝に目が覚めるかどうかも定かではない。とうとう2025年巳年後半には後期高齢者の仲間入りの年だ。そんなこんなで、もし生きているうちにもう一回海外旅行に行けるとしたらどこがいいだろうか。マダガスカル旅行から帰った昨年の後半に考えた。
もうこれが最後だとすれば、どこが良いか。思い残すことがないようにこっれきり、これが見納めと思って真面目に行きたい国を考えてみようと思った。いつまでも息ができると思ってはいけないのだから(もし健康で長生きできたらそれはそれで幸運だろうけれど)、映像で見るだけではなくて自分の足で踏み締めるとしたらどこが良いだろうか。
思案の末、そうだイタリアに行こうと決意して昨年末のJ◯B旅行社の団体旅行を申込んだ。言葉に不自由しないのであれば個人旅行で行きたいが、もう空港の英語放送すら聞き取れなくなってしまっているので致し方ない。行きたいところはフィレンツェとヴェネチアの二箇所。でも年末年始の二都旅行のプランはなく、敢えなく周遊プランに参加することにした。
クリスマスに出発して今年の元旦に帰国した。全行程を以下に記す。旅行中にスマホに残したメモをコピペする。団体旅行はともかく盛りだくさんで忙しい。市中観光はほとんど小走り状態の連続、置いてゆかれないように付いてゆくので精一杯だ。ちなみに私たち夫婦が最高齢、21名の参加者の半数はハネムーンの若いカップルだった。
カタログ上では8日間のツアーであるが、空港での待機と飛行機に搭乗中を除くと実際にはミラノーヴェネチアーフィレンツェ(連泊)ーローマ(連泊)を訪ねる実質5日間の旅だ。フィレンツェとローマは連泊だったが、夜着いて、翌一日観光して、三日目の朝早くには移動なので観光は中一日だけの厳しい内容だ。小走りにならざるを得ない。でも旅行社の企画ツアーとはそういうものだろう。もっとゆっくり観光がしたかったという愚痴は贅沢すぎるに違いない。
12/25 羽田発13:20
ローマ乗り継ぎ 22:00発(ミラノへ出発)23:25ミラノ・フィナーテ空港着
23:55 ホテル着 12/26 2:00 就寝
12/26 ミラノ観光:ミラノはイタリア第2の都市、イタリア商業の中心地
6:25 起床 7:00 朝食バイキング カプチーノをこぼす 8:30 荷物出し 9:00 出発
○スフォルツェス城:お城の敷地を徒歩で通り抜けるだけ
○ミラノ座、ミラノ広場ダビンチ像(四人の弟子)
○エマニエレ2世ガレリア:ガラス天井のアーケード状の商店街(プラダ本店前)牛の金玉潰し(踵で雄牛の急所を踏んづけるとミラノにまた来れるそう、観光客多数)
○10:00 大聖堂(ゴッシック様式世界最大のドゥオモ):ただ単純にこれはすごいと感動して見学
11:10 ミラノ広場集合 バス移動
11:30 レストランで昼食:白ワイン、リゾットとミラノ風カツレツと野菜細切りサラダ (白ワインはデキャンター500mlで10ユーロ、安い)
13:10 サンタ・マリア・デッレ・グラッツェ教会 円形天井教会前到着(ミラノで唯一の世界遺産)
○レオナルドダビンチ最後の晩餐鑑賞(13:45) 鑑賞は時間制で15分と超短い。予想してしていたよりも画面の修復は進んでいて明るい。修道院の食堂の壁に描いたダビンチのこの絵にかけた思いと繋がる。
14:20 ミラノ出発 バス移動 17:50 ヴェネチア着 水上タクシー(10人乗り小舟)でホテルへ 18:05 ホテル着チェックイン 18:20入室
18:30 サンタルチア駅散策と駅前商店街見学・買い物:駅の売店のパニーニなどの食品は先に会計して商品は後で取る方式、やり方が分からず買えず、商店街の小さなお店でワインとビールと生ハム入りのパン購入
17:30 帰室 部屋で夕食(パンとビールとワイン(17ユーロ)羽田空港で買った蒸しパンも食べる)
12/27 ヴェネチア観光:水没間近の世界遺産
7:00食事 7:15荷物出し7:50集合・出発8:00 水上タクシーで移動
○ドゥカーレ宮殿前集合(見学はなし)
○リアルト橋観光:以前に妻が息子と泊まったホテルの前で記念写真撮影
○サンマルコ寺院見学:聖堂は祈りの場であるとともに権力と権勢を誇示する場でもあったのだろう
10:00 ヴェネチアン・グラス工房自由見学(観るだけで購入せず):この地のガラス工芸が教会のモザイク画を維持するために発展したことを知る 10:40集合
11:00-11:30 恒例のゴンドラ周遊:外海は結構揺れた その後自由行動
11:50 入り組んだ狭い路地に面した小さなレストランで昼食(フリー、 27 ユーロ)
食後徒歩で観光、生鮮市場買物見学(ドライトマト、リゾットセット購入)
13:20集合(2本柱ライオン側)水上バスでバス駐車場まで移動
14:00 ヴェネチア発 15:20(休憩30分)16:10発
18:10 フィレンツェ着(ホテル・ラファエロ)19:30 夕食(ホテル)パンナコッタ付き その後就寝
12/28 フィレンツェ観光(終日)(連泊)
6:50 食事 7:55ホテル発 午前中はピサの斜塔観光(塔に登るのがメイン)
9:00 駐車場着 観光バス駐車場から徒歩 路面電車風バス(観るだけのチューチュートレイン)
洗礼堂・大聖堂・納骨堂(トイレ、ロッカーにすべての荷物を預ける)カメラのみ持参可
10:15 斜塔登楼(293段):15分ごとの予約制で人数制限あり
11:00 サンタマリア門集合 11:20発 バスでフィレンツェへ帰還
○ミケランジェロ広場 フィレンツェの街の展望と写真撮影
13:00ミケランジェロ広場に隣接のレストランで昼食(フィレンツェ風ステーキ・硬い)
ゼッカ バス駐車場
礼拝堂 ドゥオモ(ロマネスクスタイル大聖堂(見学はなし))集合
○ウフィッツ美術館見学(リュック不可):超有名絵画多数 走るようにして館内を貫通 もっと観たかった
ダビデ像が立つヴェッキオ宮殿前のシニョーリア広場で解散・自由行動 ヴェッキオ橋で土産品購入 夕食は現地名物牛胃煮込みのパニーノ購入(ホテル帰還後食べた)
19:15集合(シニョーリア広場革製品売店) 19:38バス乗車 ホテル帰還
ウフィッツ美術館は名画の宝庫
12/29 フィレンツェ発ローマへ移動(ローマ連泊):途中中世都市観光
6:30 朝食 6:50 荷物出し 7:28 出発 (8:50−9:25 休憩)バス移動
10:30バジョレッジョ(街の名)で小型バスに乗換、展望台から徒歩で坂を登りチビタへ。
◯チビタ観光:地震で絶壁となった丘の上に残る13世紀の小さな町並み 住人は12人。12:00 出発
13:00-14:45 郊外のレストランで昼食: 山もり生ハム、地パスタ、ポーク、赤白ワイン ワイン(5ユーロ)
◯オルヴィエート観光:15;20 ケーブルカーから小型バスに乗換えて街へ。エトルリア時代(2700年前)からある古い要塞都市、1200年台に繁栄。モーリの塔が町の中心。ドゥオモ(大聖堂)はイタリア三大ゴチック様式大聖堂のひとつ(1264年着工)でフレスコ画とパイプオルガンが有名。伝承では1263年にボルセーナの奇跡(聖なる血のついた聖職布)出現。1300年に建築家・宗教家として有名なロレッツ・ナイターニにより建築完成(らしい)観光後同じ経路でバスに戻ってローマを目指す
19:30 ローマの街中レストランで賑やかな夕食:ローマ風ピザ(三種から選ぶ、カプリチョーザ(気まぐれ)、マルゲリータ、アンチョビ入り) 21:30 終了 ホテル帰還
12/30 ローマ観光(終日)
6:30食事 7:15出発 8:00 バチカン入場 現地ガイド(Mrルディー)
聖なる門の25年ぶり開門:カトリック教徒は一生に一度はこの門をくぐりたいそうだ 日本のお伊勢参りのようなものらしい
○システィーナ礼拝堂:圧巻ミケランジェロ「最後の審判」を拝む 圧倒された(写真は撮れず)
○サン・ピエトロ大聖堂:荘厳で巨大な祈りの場 讃美歌が流れていた
○コロッセオ:外だけで入場せず、残念
12:30 ランチ (パスタ)
トルードビッシでバス下車
○トレビの泉:観光客が溢れている
○スペイン広場(解散):ローマの休日 寒いからアイスクリームを食べている観光客はいなかった
自由行動:Google mapsを頼りに散策
ポポロ広場
サンタンジェロ城(年末年始で閉館中で観光出来ず)
ボルゲーゼ公園縦断:広い敷地に夕闇が迫る
17:00 歩いてホテルl帰着:Google mapsさえあればどこにでも行けそう
ホテル近くのレストランで外食 27€ すごく不味いパスタとライス
スーパーマーケットで土産購入(イタリア産小麦粉と缶ビール)、非常口から出ようとしてサイレンが鳴り肝を冷やす(恐縮)
システィーナ礼拝堂「最後の審判」(画像はネットから引用)
サン・ピエトロ大聖堂内部
12/31ローマ発(日本へ)
ホテルの近所を朝散歩(たまたま開いていたパン屋で土産のパンを買う)10:20 集合 10:30ホテル発
11:20 空港 15:05ローマ発(イタリア航空AZ792 羽田直行便)
2025/1/1(元旦) 羽田に帰国 11:20 羽田着。明けましておめでとうと、ひとりで叫び、無事日本に帰国
妻は今回が4回目のイタリア旅行だ。中学時代の同級生と参加した団体旅行や息子と二人の個人旅行でこの地を訪れている。私はもちろん初めての、そしておそらくこれが一回きりのイタリア旅行だろう。長靴の形をしたイタリアの地理で知っているところといえば、ローマぐらいだ。このイタリア旅行から帰ったあとも、いまだにミラノやフィレンツェ、そしてヴェネチアがイタリア半島のどこに位置するかが定かではない。もともと地理音痴だ。国外はもとより国内ですら、地名と位置が一致しない。おそらくこれは生まれつきの先天的な認知障害の一種に違いない。旅行好きの地理音痴はいただけない。どこで迷子になってしまうか、とくにこれからの人生では多くの人に迷惑をかけてしまう事態がいつ起るともしれない。そんななか、なぜフィレンツェとベネチアに行きたいと思ったかを書いておきたい。
まだ十代のはじめの頃、一番夢中になっていたのは絵を描くことだった。小学校の頃は漫画家の石ノ森章太郎(このころは石森章太郎と名乗っていた)に憧れて、将来の夢は漫画家になることだった。彼の漫画家入門という本を買ってもらって愛読書にしていた。中学に進学したあともなぜか、美術の成績だけはいつも5段階評価の「5」だった。しっかり油絵を描くようになったのは高校入学して美術部に入部してからだった。毎月のお小遣いを貯金して小学館美術全集を買ったのはこのころだ。この全集はいまだに我が家の玄関脇の物入れにひっそりと仕舞われている。このころの漠然としたあこがれが画家になることだった。印象派のモネやルノアールの明るい色彩に溢れた作品、モディリアーニに象徴されるモンパルナスの画家達や洗濯船でキュビズムを生み出したピカソやブラックなどパリの裏町にたむろする破天荒な画家達の人生は、まさに憧れそのものだった。
画家であれ、音楽家であれ、天才は自分が天才であることに気づいているという。自分のことで恐縮だが、残念なことに客観的にみて、自分に美術の才能があるとはどうしても思えなかった。大学進学の受験期を控えて、現実的に選択したのは安定した職業的専門性を身につけて生きることだった。凡人は自分が凡人であることを知るのである。
フィレンツェを知ったのはレオナルド・ダ・ビンチやミケランジェロなどの天才が活躍したルネサンスの舞台としてだった。パリの裏町で怒濤のように起った伝統的な美術手法の破壊運動とは異なる、まさに理想的な「美」そのものを追究する革命的なルネサンス時代の中心舞台となったフィレンツェは思春期後半の自分の心に深く刻まれた「美の原点」だった。ボッティチェッリの「春」や「ビーナスの誕生」、ダビンチの「最後の晩餐」もミケランジェロの「ダビデ像」も自分にとっては記念すべき青春の宝物だったのだ。
「モナリザ」は日本で開催された展覧会で実物をみたことがある。ミケランジェロの彫像のレプリカは上野の美術館で鑑賞した。しかし、画集で親しんだ教会の壁に描かれた「最後の晩餐」の本物や中世の面影を残すフィレンツェの街中に立つダビデ像をいつか自分の目で直に観てみたいと思っていた。年月とともにいつしかこの願いも沈殿して忘却の闇へと去って行った。もし海外で一カ所だけ行くことが可能であればと考えたとき、ふいに記憶の底から浮かんできた場所、それがフィレンツェなのである。
ヴェネツィアについても書いておきたい。かつて日本ではベニス(ヴェネツィアの英語圏の呼称)と呼ばれていたこの地名は、シェークスピアの「ヴェニスの商人」やトーマスマン原作の映画「ベニスに死す」で知ったのが最初であると記憶している。「ヴェニスの商人」は痛快だが非現実的で奇怪な物語である。映画「ベニスに死す」をいつ観たのかはっきりした記憶は残っていないが、白い上下の背広を着た紳士が海岸でデッキチェアに座ったまま死亡するシーンだけが思い出される。なんとなく理不尽なのだ。これらとは全く無関係にヴェネツィア(ベニス)といえばゴンドラが頭に浮かぶ。懐かしい昭和歌謡に「ゴンドラの唄」(「命短し~」で始まる歌)という曲があるが、なぜかヴェネツィアというとゴンドラに乗ってこの唄を聴きながらワインで乾杯する夢をみることがある。有名な「サンタルチア」ではなく、どうしてか「ゴンドラの唄」なのだ。中山晋平作曲のこの曲はヴェネツィアとはまったく関係がないようだが、この乾杯のシーンとフィレンツェ出身のヴェルディが作曲したオペラ「椿姫」のなかの劇中歌「乾杯の歌」がくり返し夢のなかでリフレインする。夢だから辻褄があっていなくてもしょうがない。なんとも不可解だが、ほろ酔いで舟に揺られる至福の夢なのだ。水没する水の都でゆらゆらとゴンドラに揺られて、優雅な時を過ごす贅沢きわまりない夢である。おそらく、「ゴンドラの唄」のゆったりとした曲調や「乾杯の歌」のタ・タ~ン、タ・タ・タ・タ・タ・タ・タ~ンのリズムが運河の流れやその水面に浮かぶ舟の揺れを思い出させるからだろうか。これが自分とヴェネツィアとがつながる縁である。
余談だが、このヴェルディ作曲の椿姫「乾杯の歌」を初めて聴いたのは古風なビヤホール「銀座ライオン」の階上のレストランフロアでだった。今からおよそ40年近くも昔の話である。職場の上司TM氏と今は亡き大学同窓の大先輩H氏が誘ってくれた食事会の場が初めてだった。音大の学生やOB・OGがアルバイトでホールの端で歌っていて心に残った。有名な曲で時々夢にも登場する曲ではあるが、作曲者も題名も最近までずっと知らずに過ごしていた。それが、ひょんなことで作者を知ることなった。それはこのたびのイタリア探索がきっかけなのだ。どこに行きたいかと何の気なしにフィレンツェのことを調べていると偶然その地生まれの作曲家の「乾杯の歌」に出くわした。ゴンドラに揺られてこれらの歌を口ずさみたい。だからフィレンツェとともにヴェネツィアにも行ってみたいと思った訳である。たわいもない理由なのだ。