弘前紀行

今から40数年前、東京からこの地に移住した時は
関東の人間で津軽を知っていても弘前を知る者は少なかった。
弘前と書くと「ヒロマエ??」ってどこ?と聞かれた。
今では桜と林檎と津軽の街として知らないものはいないほど有名な街になった。
当時は人口が10万ちょっとで、太宰治にゆかりのある街であることぐらいしか
知られていなかった。

(この街の象徴、弘前城から眺めた岩木山

弘前城は今年が築城400年の記念すべき年だ)

(本丸は桜の季節には立錐の余地がないほど花見客で埋め尽くされる)
いまでは市町村合併で人口33万人にもなった街であるが、
郊外に大きな商業施設が出来て
かつてのメインストリートの土手街商店街は閑散としてしまった。

(土手街商店街)
道路の整備と区画の見直しが行われて
昔の風情はまったくといってよいほどなくなった。

昔ながらの和菓子屋や時計店が往年の賑いを偲ばせるぐらいだ。
毎年訪れるたびに津軽の首都であったこの街が遠い昔の姿から変わってしまうのが寂しい。
この地の津軽為信が都を開いたときには高岡という街で
のちに弘前と改名された。
明治維新の際、この街は弘前県(のちの青森県)の県庁所在地だった。

(旧市立図書館、当時は下宿屋で友人が6角形の部屋に住んでいたこともある)
街にはあちこちに古き良き時代の記念碑的建造物が残っているが
大切に守られているようには感じられない。
地元の人にはわからないこの街のよさは
遠く離れて初めてわかるのかもしれない。

(最勝院の五重塔、日本最北の5重屋根をもつ塔だ)
この街は北杜夫のドクトルマンボウ青春記にある松本市を想わせる所だった。
城下町に住みたくて・・、その他の事情もあって布団一式をチッキで送り
この街に辿りついた当時は
まさに北杜夫の小説どおりの風情で感激した。
古い納屋を改造した下宿先で
飲めや歌えの乱行が祟って追い出されてしまい
その後も点々と狭い街の中で引っ越しを繰り返したことが懐かしい。
(続きはまた今度・・・)