不二の山

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三浦富士頂上の浅間神社奥宮

三浦半島には三浦富士と呼ばれる低山がある。標高は200メートル足らずの丘に近い山だ(標高183メートル)。横浜の円海山から始まる高みは横須賀を経て三浦半島の背骨にあたる三浦丘陵に連なる。その南の端に位置する頂が三浦富士だ。この手前に砲台山、武山の小さなこぶのような高みがあり三浦半島の突端へと繋がって太平洋に至る。

眼下には遠く西方の東京湾、足元には白く弧を描く三浦海岸をなす金田湾、東方には霞む相模湾が広がって、これらに挟まれた三浦富士の頂には浅間神社奥宮が祀られている。地元の漁師には漁場の目標として、あるいは漁の安全を祈願する信仰の頂として愛されてきた。

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相模湾を眺める

富士と名がついているものの姿形は屹立した美麗を示すわけではない。ふもとからは嶺続きの砲台山や武山の方がむしろ目立つと言ってよいが、かつては浅間山と呼ばれ、はるか昔に行基が開基と伝えられる浅間神社信仰と結びついて他の頂を差し置いて不二の山、三浦富士と呼ばれているのだろう。

春一番の吹いた翌日の日曜日、旧知のKH 氏の主催する山歩きの会に参加して京浜急行京急長浜駅から三浦富士に登った。このコースを歩くには今回が三回目だ。総勢15名の大きな団体が列になって歩いた。歳と共に少しずつ悪化する腰痛対策にはじっと座っているより少しでも歩くとある程度の効果があるような気がする。この日は前日よりも気温の低い日だったが日差しが明るく降り注いで気持ちの良いトレッキングができた。登り下りを繰り返し砲台山を経て武山の展望台から房総半島を眺め、持参の握り飯で昼食を摂った。展望台そばの古刹、武山不動尊は一面のツツジが見事な花の寺として有名だという(東国花の百ヶ寺)。すでにちらほら蕾が膨らんでいた。展望台を後に長い急坂を下り津久井観光農園に着いた。のんびりトレッキングツアーはここでイチゴ狩りの寄り道。整然と並ぶビニールハウスの前で途中すれ違ったボーイスカウトの子ども達に追い抜かれた。このあと京急線津久井浜駅前で解散して帰路に着いた。歩いた歩数は一万三千歩余り。約三時間半の穏やかなハイキングだった。

イチゴ園のビニールハウスではこの地で主に栽培されている品種の紅ほっぺの30分間食べ放題で料金が1600円だった。苺の最盛期が近づくにつれ料金が安くなる仕組みだそうだ。大粒の苺を10粒食べれば十分に元が取れるという触れ込みでハウスに入ったが、10分もしないうちに20個近くを平らげてしまい、がっつき過ぎで少し気持ちが悪くなってしまった。せっかくの苺も美味しいのは最初の数粒で、あとは惰性で食べすぎてしまい反省する始末だった。過ぎたるはなんとかだを身をもって体験した。でも大人も子どもも同じ料金だから、それほど食べられないだろう幼い子どもにはもう少し料金に工夫があってもういいように思った。

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全国には富士と呼ばれる頂きが340ほどあるという。地元では愛称として呼ばれるこれらの峰をふるさと富士というらしい。多くは日本のシンボル、富士山のような姿が秀麗な峰がこの名で呼ばれている。なかには三浦富士のように美しい立ち姿とは縁のない山もあるようだ。

北国の北海道には蝦夷富士(後方羊蹄山)、青森の津軽富士(岩木山)、岩手の南部富士(岩手山)に始まり、南は鳥取伯耆富士(大山)、鹿児島の薩摩富士(開聞岳)に至るまで、ふるさとの象徴として四季折々に眺められ、固有の名称とともに故郷の地名に富士(不二)とつけて郷土の誇りとして愛されている山。特に生まれ育った生家を離れて暮らすものにとっては古里の景色を代表する峰は深い哀愁とともに心に刻まれているに原風景に違いない。

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春の岩木山

東京で生まれた自分にとって富士といえば静岡と山梨に跨る霊峰富士山に他ならないが、故郷の山という感覚はない。自分にとって不二の山といえば、青春期から社会人となった人生前半に仰ぎ見た津軽富士、岩木山だろう。春夏秋冬、朝な夕な、津軽平野の春の林檎畑や冬の雪原の果てに凛と佇むこの山は、津軽に生まれ育った身ではないけれど、自分にとっての故郷の山、不二の山である。眼を閉じると躍動する津軽三味線の響きと共に短い夏を彩る薄明かりに浮かぶ扇ねぷたの行列、たわわに実った林檎畑の秋、雪虫の飛ぶ初冬、待ち焦がれた春、その背景に優美な津軽富士が見えるような気がする。

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二月下旬の弘前城

津軽弁には「じょっぱり」という言葉や「ごんぼほり」という方言がある。この地方に住むものにしか理解が難しい方言だ。大都会の東京を離れずに首都圏の大学を卒業し摩天楼の中で暮らす人生を過ごしていたかもしれない暮らしとは全く違う今の生業を切り開く勇気と覚悟は、津軽富士を仰ぎながら心に響く津軽の言葉の中で暮らした日々があったからこそ培われたと確信している。

ふるさとは遠きにありて思ふもの

今では新幹線に乗れば日帰りもできる津軽ではあるけれど、室生犀星の抒情小曲集に記されたような遠くのふるさとを持つことができたのは人生最大の幸運だったと思う。時々、当時を思い出して本州の北の果てを彷徨いたくなる。

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厳冬の八甲田山雪の回廊

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雪に埋もれる酸ヶ湯温泉