「漫画」を読む

梅雨の最中、先月は体調を崩してしまい、山のように薬を飲み、朝な夕なに吸入薬のお世話になった。一時は咳き込みで昼夜とも眠れず、食欲も低下して大変だったが、なんとか入院もせずに一か月あまりの闘病で以前に近い健康状態を取り戻した。まだ以前と同じとは言えないものの、なんとか平安な日々の暮らしを送れるようになった。人生で健康以上に大切で重要なものがないことを身をもって体験した。

集中力が低下してなにをするにも気力が続かない状態から離脱したので、気分を一新する目的で漫画を読んだ。

長谷川町子「いじわるばあさん」(全六巻)、つげ義春全集(全八巻)、宮崎駿風の谷のナウシカ」(全七巻)。以前に読んだことのあるものもあるが、すでに内容は覚えていない作品ばかりだ。

それぞれの作者がなにを描こうとしたのか考えながら読んだ。合わせて作者自身のエッセイ集や文化人・評論家の批評・評論も拾い読みした。理解の助けにはならないが、鑑賞の奥行きが深まって興味深い。

長谷川町子はこの作品で老齢者の孤立・孤独と高度成長期真っ只中の昭和時代の効率社会の理不尽を描いている。今現在、私達が直面している少子高齢化問題や持続可能社会体制に対する多くの課題に対して、辛辣にしかも声を荒らげずに描かれた小さな四コマ漫画の世界観には先見の明が溢れている。すでに今から50年以上前に描かれた作品とは思えない現実感がどの一コマにも描かれている。「サザエさん」を凌ぐような、もっと長期の制作を描き続けて欲しかったと今更ながらに思うことしきりだ。

つげ義春は去年日本芸術院会員になった。赤貧の家庭に生まれ小学校卒業とともに町の小さなメッキ工場に就職しながら描き続けた漫画は、貸し本屋時代の手塚治虫風、さいとうたかお風、白土三平風の初期作品から水木しげるのアシスタントを経て作風が一変するのが面白い。私小説にたいして「私漫画」と呼ぶような独自の作品世界が形而下の摩訶不思議な世界を呼び寄せている。漫画という表現手段に普遍性と芸術性を付加した功績は大きい。

宮崎駿は世界をリードするアニメーションの巨匠だ。ディズニー動画とは一線を画する日本のアニメーションの質を世界に冠たる不動の地位にまで築き上げた一番の立役者だと言っても異論はないだろう。まだ若い頃、アニメ制作の仕事の依頼がなく、閑古鳥が鳴いていた時代に描かれたこの長編漫画は、テレビで何回も放映されている同名のアニメーションの原作だが、アニメという膨大な費用をかけて製作された起承転結が定めの商品とは異なり、内容は複雑で難解だ。人間の性(さが)、信仰と神の存在、命の儚さ、消滅と再生など、小さな一コマ割の中に作者の世界観や意図を凝縮させ、拡大鏡で覗かなければわからないような詳細に描き込まれた独自の世界にただ圧倒される。この人もおそらく独特な感性を持つ異才、天才のひとりだろう。

我が国は世界に誇る漫画文化を発展させてきた国である。古くは鳥獣戯画に始まり、その精神性が時代を超えて庶民に受け継がれ、江戸時代には鬼才葛飾北斎へと昇華した。近代・現代の手塚治虫赤塚不二夫などSF や人間の辿る大叙事詩、あるいは馬鹿馬鹿しほどの非日常を出現させた奇想天外なギャグマンガに至るまで、日本の独自文化が生み出した娯楽。絵画と物語が織りなす比類ない世界はドラえもんやアンパン、スラムダンクやワンピースへと連綿と続く。その独自の世界観はこの国に生まれ育った人々の原体験として深くその精神性の中に埋め込まれているに違いない。