西インドで能登半島地震の襲来を知る

自然の脅威は底知れない。令和六年の年明け早々届いた能登半島地震の第一報には心底驚いた。それからすでに一週間が経ち、七草粥を終えた今日になっても、いまだ被害の全容が明らかになっていない。厳しい寒波と大雪のなか、死者、行方不明の被災者が三百人を越え、多くの家屋が損壊している。被災者の方々の不安と苦難を思うと心が痛む。

震度7という途方もない大地震による津波は5メートルに及び、打ち上げられ船底を晒す漁船の姿が痛々しい。我が家の新婚旅行の思い出の地でもある輪島の町は地震に引き続いて起きた広域火災で町そのものが消滅してしまった。厳冬期を迎えたこの時期に暖房器具からまたたくまに火災が燃え広がったのだろう。まさに誰もが夢にも想像しないような激甚災害の光景に言葉を失ってしまう。この寒さの中、被災者の方々に健康障害が広がらないことを祈るばかりだ。

地震の第一報は西インドの田舎町ダマルカ村(Dhamadka)で知った。令和五年の年末から令和六年の年始にかけて、日本を離れ西インドの旅の途上だった。大災害のニュースを見た翌日には羽田空港日本航空の旅客機と海上保安庁の航空機の衝突事故が報道され、いったい今年の日本はどうなってしまうのか、遠く離れたインド亜大陸の西の端で不安になってしまった。