悲喜こもごも

平昌(ピョンチャン)冬季オリンピックもいよいよ閉会式を迎える。
表彰台に上り歓喜するもの、成果を手にできず涙で競技を終えたもの。
闘いは時の運、ごくわずかな違いが勝者と敗者を色分けする。
結果は厳格で、実力と幸運の女神の気まぐれな笑みが感動と悲嘆の分かれ道を演出する。
成果の如何に関わらず華やかな舞台を下りれば、それぞれにまた新たな日常が巡ってくる。
スポーツのゴールは終わりであり、新たな始まりとなる。
全てに始まりと終わりがある。
人の命も始まりと終わりがあることには違いはないが、
人生には始まりはあってもゴールはない。
命の終わりは消滅であり、再生のない終焉である。
勝者もいなければ敗者もいない。命はその人限りのものだから。
新宿駅近くの映画館にドキュメンタリー映画「四万十 いのちの仕舞い」を観に行った。
美しいと四万十の四季の中で命をみつめる内科医、小笠原望医師の日常を描いたドキュメンタリー映画だ。


(上映のあとの溝渕雅幸監督によるトークショウ)
限られた命の終わりを四万十では仕舞いという、と語られていた。
消えてゆく命は記憶の底に沈み、生きた証はいずれは溶けてなくなるものであっても、
在ることは在ったこととして 時間の中に刻まれる。
私達はそうやって生きてきた。親の親の親をたかだか百人辿れば、二千年の昔にたどり着く。
だから再生のない終わりであってもひとつの命は永遠の彼方に繋がっている。
看取りの医療は私達の記憶に存在を刻む医療なのだと思う。