シュウマイ弁当か炒飯弁当か?

今日、講義を担当している専門学校の今年度最後の授業が終わった。いよいよ明日は試験になる。ぜひ、学生みんなが合格点を取って卒業して欲しい。

学生のなかには中年といっても憚ることのない歳の行ったヒトもちらほらと混じっているが、大半の学生は20前後の若人(わこうど)達だ。18歳が成人年齢となり、若人がいつの年齢の人々を指すのか、明瞭ではなくなって、いったいに、若者の定義が難しくなったけれど、彼らの門出に少しでも力になれればと、授業を受け持って3年目が終わった。

九月下旬から始まる講義は1回九十分で昼休みの四十分を挟み、午前午後あわせて三時間、週一回全十四回の長丁場だ。いまどきチョークで黒板に板書をし、粉まみれにながら、立ったまま話し続ける重労働の講義である。講義の準備も生半可ではなく大変な仕事だが、教える側にも、日進月歩の科学や社会の移ろいには、言葉にできないほどたくさんの学びをもらい、さらに学ぶ楽しさをも与えてもらっている。。

この歳になるといつ何時(なんどき)、突然に倒れて命の仕舞いを迎えてもおかしくない。ともかく無事にシラバス通りに講義予定を終了することができればなによりで、それはそれでめでたいことに違いない。もし、このデューティを無事終わることができれば、さかやかにお祝いをしたいと思ってきた。

そして今日、この懸案の難行をなんとか無事終えることができたので、夜はささやかに自宅で祝賀会を催した。参加者は二名だけとすこし数的には寂しいけれど、お祝いの会は人数に関係なく、なんだかうれしい気分になる。気は心。

メダカの鉢が凍るほどに寒波が厳しい中、パーティーの目玉といえば、なんと言っても食べ物だろう。なにをどう食べるか。

今回の主役を引き立てる脇役は、崎陽軒の弁当である。こんな機会でもなければ、地元横浜の特産品を口にすることはできない。いまでは全国のB級グルメの垂涎の的となっている、全国的に有名な崎陽軒弁当が今夜の宴会の華である。

専門学校の帰りに、最寄り駅の売店で買って帰った弁当は2種類。シュウマイ弁当に炒飯弁当だ。このふたつの弁当のどちらがどうなのか、優劣をつけるべく、いそいそと買って帰宅した。

日が暮れて弁当の包みを開ける。シュウマイ弁当は昔ながらの経木の弁当箱だ。木の香が懐かしい。かたや炒飯弁当は発泡スチロールの弁当箱だった。蓋を開けるとシュウマイ弁当の白いご飯が輝いている。一方の炒飯弁当は黄金色の飯が美しい。見た目の美しさに軍配をあげるとしたら、やはり輝く白が眩しいシュウマイ弁当だろうが、これは少し迷うかもしれない。弁当の真髄はなんと言っても米である。

弁当の具がどうか。シュウマイ弁当には名物のシュウマイが5個入っていて、さらに定番の鮪の味噌漬け2切れ入っているし、伝統の干し杏も入っている。かたや炒飯弁当にもシューマイは入っていたが、3個のみだった。主食の炒飯には美しいグリーンピースが乗っていて、シュウマイ弁当の地味な梅漬けには勝っているものの、副菜の鶏の唐揚げがニ切れでは唐揚げ一切れに卵焼きと蒲鉾が添えられているシューマイ弁当に太刀打ちできない。名脇役のタケノコの煮物も入っているが、あきらかに量が少ない。その代わりなのかどうか、黄色く色づいた焼きそばが添えられていた。しかし、これではまったく鮪に太刀打ちはできない。勝敗は明白だ。

ささやかな祝賀弁当鑑賞会の勝者は、言わずもがなのシュウマイ弁当だった。やっぱり定番で長く生き残ってきたものには、それだけの存在感や生き残るだけの力がある。

もう細々と暮らす老齢の身ではあるが、もし、まだ存在する意義があるとすれば、長く培ってきた個性を大事にして、身の丈に合った自己主張をすることなのだろうと思った。これが結論(ちゃんちゃん)。