波乱万丈:田中一村終焉の地と奄美野黒兎を見に行く

奄美大島に孤高の画家、田中一村の足跡と天然記念物アマミノクロウサギを見に行ってきた。

昨年末、今年の二月下旬の中国・桂林の団体旅行を予約しておいた。この旅行に合わせて小遣い稼ぎのアルバイトの予定を入れず頼まれ仕事もほかの日にして幽玄な水墨画の世界へと旅立つはずだった。

しかし中国武漢での新型コロナウイルス感染の勃発でキャンセルした。仕方がない。目に見えない敵とは戦えない。

国内でも横浜のクルーズ船ダイアモンド・プリンセス号から始まった新型ウイルスの集団感染が発生し、この日に備えて空けてあった予定なしの日々をどうするか迷った。膝下の県内近隣でも感染が相次ぎ、じっと息を殺して家の中にこもっているのも気が滅入る。自分は病気ではないから転地療養ではないけれど、もし可能ならば数日でも県内を離れて、どこか遠くの空気の綺麗な場所に行きたい。どうせなら永年の憧れの地、奄美大島に行ってみたいと思った。幸い鹿児島や奄美群島はこの新型コロナウイルスCOVID-19の汚染は及んでいないから、我が家近辺でウロウロするよりも安全かもしれないし、このウイルスのヒトヒト感染が明らかになってからは近所のスーパーで野菜を買う以外は人混みやイベント、映画館にも出向いていないから自分が感染源となって迷惑になる可能性は相当に低いはずだ。

直前なのでダメ元とも思ったが、27日の朝一番の成田発LCCのピーチ航空の奄美空港直行便の往復予約が取れた。空席があったのもきっと国内でのコロナウイルス感染発生のせいだろう。

LCCは初体験だ。旅の行程は家内が色々調べて決めてくれた。例によって自分の役目は現地でのレンタカー運転手と荷物運びだけであとはツアー・コンダクター役の家内について行けば良いだけのお気楽旅行だ。三泊四日の旅程は最終日の一泊だけは夕食のつかない空港に近い繁華街のホテルに泊まることにしてあとの二泊は民宿に泊めてもらうプランになった。

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はじめてのLCCは予想外に快適だった。シンプルプランなので座席は空港で初めてわかる仕組みだったけれど、家内は窓側、自分は通路側で楽々の機内旅だった。前の座席との間が少し通常のエコノミークラスよりは狭い感じがしたけれど、せいぜい三時間程度の国内旅行であればこれでまったく不都合はない。

出発の直前になって家内に高校の同級生から連絡があり、かねてから病気療養中の友人の具合が悪く、とうとうモルヒネを使うことになったと知らせが入った。札幌在住の、何回か我が家にも遊びに来て泊まったことがある五十年来の家内の無二の親友だ。先日再入院すると本人から電話があったばかりだった。肺癌だった。

一日目は空港近くの奄美パークに併設された田中一村美術館を訪れたあと島の南部の古仁屋(こにや)港から海上タクシーで20分足らず離れた加計呂麻島(かけろまじま)の勢里(せり)地区にある民宿「ゆきむら」(0997‐76‐0038)に泊めてもらった。夕方4時の乗客定員12名の舟にギリギリの満員で乗り込み、島の瀬相(せそ)港に迎えに来てくれた民宿の主人の車でたどり着いたこの日の寝床は、白い砂浜に面した住民が十人の静かな集落の中にあった。向かいの山に夕陽が沈む。

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港で舟を待つ間に家内の携帯に友人から親友急逝のメールが届いた。

宿の女主人は絵が上手。独学で学んだというパステルや木炭画は島の自然を暖かい視線で写しとっている。島の生き物を描いた天井画は玄人はだしだ。少し耳の遠くなった93歳のおばあちゃんは眠たげに昔話をしてくれた。夕食は地元で獲れた琉球イノシシの鍋、前の浜で獲った三角形の貝「ドビンニャ」、キツネウオの唐揚げ、ビンチョウマグロの刺身などだった。奄美大島黒糖焼酎の島である。珍しい島料理を肴に酒もすすんだ。酔い覚ましに外に出て見上げた満天の星空が言葉にならないほど綺麗だった。

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加計呂麻島の民宿「ゆきむら」

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加計呂麻島の朝

民宿のご夫婦は民宿を始めて25年になるという。島の四季や美しい景色の動画を見せてもらい、島人や島の暮らしの話を一緒に泊まっている千葉から一人旅の女性とともに近隣の馴染みの住民を交えておもしろおかしく話を聞いた。住民の男性はここの常連で東京から移住してすぐ近くの老人施設で働いている。

二日目の朝いちばんで連絡を取ると故人の通夜と葬儀は今夜と明日に決まったと知らされた。家内は観光は諦め、とんぼ返りで北海道の葬儀に参列することに決めた。親友と最後のお別れの挨拶をしたいという。慌てて荷物をまとめ昼の飛行機に間に合うように朝一番の8時15分の海上タクシーに乗って本島に戻った。この舟も定員ぎりぎりでなんとか乗ることができた。定員オーバーの場合は島の住民が優先のルールだそうだ。次の便だと飛行機に間に合わなくなったかもしれなかった。

加計呂麻島では浜の夕照と息をのむ満天の星空を見ただけの観光だった。

奄美空港に送り届け、二日目の午後からは一人旅となった。困ったことにこの島ではほとんどインターネットが繋がらない。持参のWi-Fiルーターではタブレットが繋がらないのだ。ガラ携のみでスマホのない身では情報収集ができないのがいちばん困った。頼りはカーナビと「るるぶ」だけだった。そもそも民宿の場所や訪問予定の観光地は全て家内の頭の中だった。不測の事態に、行き先や地名がまったくわからない。わかるのは今夜泊まる民宿の電話番号、しかも携帯の電話番号だけで、カーナビでは検索ができない。なんとかかろうじてインターネットが繋がる場所で検索しても、そもそも予約しているはずの民宿が出てこない。

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田中一村終焉の家

行き当たりばったりに車を進めると田中一村終焉の地の看板が目に入った。粗末な、半分朽ち果てた小屋がその場所だった。壁の裂け目から中を 覗くと薄暗い室内には彼が暮らした当時を彷彿とさせる空間が広がっていた。ここに移り住んでわずか三年で孤高の画家は六十九歳の生涯を終えている。おそらく彼が暮らしのために野菜を作っていた畑だった思われる庭の一画に車を停め、途中のコンビニで買い求めた弁当を往時を偲びながら食べた。すでに気温は24℃になって厚手のシャツでは暑いぐらいだった。田中一村は19年間の奄美暮らしで色紙などの小物を除くと大ぶりの作品を30作しか製作していない。大島紬の染色工として働き資金が溜まると絵を描いたという。おそらくこの地の伝統工芸品である大島紬の染色作業もきっと彼の心を捉えたに違いない。ただ単に資金稼ぎのためだけに働いていたわけでは無いような気がする。円熟期を迎え、せめてあと十年長生きして彼の画業を完成して欲しかった。

観光をそこそこに切り上げ、民宿の女主人に聞いた住所を頼りに狭い路地をウロウロと何回も周回し、近所の住民に聞いてようやく泊めてもらう民家にたどり着くことができた。しかし考えてみれば10年か少し前までは、モバイルの情報検索環境なしに旅をしていた。あまりに便利になりすぎて生命体としての生きる力が衰えてしまっている。生来、人に自慢できるほど(呆れられるほど)の方向音痴ではあるが、自立した老後を過ごすためには一人旅で感覚を磨く訓練も必要だと自覚した。徘徊老人にならないように心がけないといけない。まさに「生い先長い老人には旅をさせよ」だと思った。

 

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パンの木

二日目に泊まった民宿「パンの木・しょうてんあん(和田)」(894-1202 鹿児島県奄美市住用町西仲間327、携帯090‐88344‐5540)は元気な老婦人が一人で切り盛りする体験民宿だった。民家の中庭には大きなパンの木があり、名前の由来になっている。郷土料理と明るく歯切れのよい話っぷりの女主人が名物のようだ。ことし喜寿を迎える婦人はとっても元気。夜はアマミノクロウサギ観察のナイトツアーができる。泊めてもらう和室には四人のこどもの不思議な誕生証明(!)が写真とともに飾ってあり、女主人の黄綬褒章の立派な額縁が床の間に飾ってあった。すぐとなりの仏間には大きな仏壇と機織り機が置いてあった。

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迷いながらも早々と午後二時過ぎには着いてしまったので、長々と居間のソファーに座ってお茶をいただき、地域の由来を聞いた。この地区は昔、製紙工業が盛んで周囲の山の木が次々に切られ禿山となってしまったという。高度成長期を過ぎ山の木々がなくなってしまい外国からの安い資材の輸入によってパルプ工場や製紙工場は次々と廃業し、やがて禿山となった山々には広葉樹が茂って現在の緑豊かな姿になったという。

現在の奄美大島には長いトンネルが驚くほど多い。まだトンネルのない交通が不便だった頃、どの家でも子弟を学校に進学させるには自宅を離れて学校の近くに下宿させることが必要だった。このための現金収入を得るために女達は朝早くから深夜まで高級品である大島紬を織ったという。まさに身を粉にして子供たちの教育に心血を注いだ時代だったという。

トンネルができた今ではほとんど使われることがなくなった旧県道が民宿のすぐそばを走っている。夜、自然観察のナイト・ツアーに行く予定の経路だ。まだ夜までずいぶんと時間があるので明るいうちに行ってみてはどうかと言われたので、山道を峠に向かって車で走ってみた。曲がりくねった、かつてのこの島の大動脈には現在はまったく行き交う車の姿がない。道際にはエゴの木に花が咲き、木から落ちた花弁が静かな峠道を白く染めていた。

夕食が美味しかった。モクズガニの汁は絶品だった。郷土料理の豚バラ肉とタケノコと切り干し大根の淡白な味付けの煮物、麦みそと魚の和え物など、食べたことのないものばかりだった。勤めから戻った次男夫婦とともに大きな食卓を囲んでの食事だった。本当の家族の団欒のようなひとときだった。

夜8時から始まったナイト・ツアーが圧巻だった。昼間と打って変わって気温の下がった山道を軽四輪に乗って走った。揺れる車窓から強力な懐中電灯で森に棲む生き物たちを探しながら真っ暗な旧県道を進む。運転は次男の担当だった。黒兎には三度遭遇した。光が当たって少しの間うずくまったままのクロウサギは近づくにつれ早足に森の中の斜面を駆け上って逃げて行く。シャッターを切る動作が間に合わない。まさに脱兎のごとくの言葉そのものだ。めったに見ることができないとされるアマミノクロウサギではあるが、この民宿のナイト・ツアーでは長いツアー歴の中で見られなかったのはわずか2回だけだという。コツがあるのだ。最近では多くの業者がナイト・ツアーを企画しているが、この地に暮らす地元民のみが知っている観察のツボがあるのだろう。きわめて珍しい固有種のアマミヤマシギにも遭遇できた。ツアーを終えて興奮が冷めやらぬうちに宿に戻り女主人と次男と三人で焼酎を飲みながらツアー談義に花が咲いた。東京銀座に勤めていた次男は三年前に島に戻ったという。現在は黒糖焼酎の作成に従事しているそうだ。アマミノクロウサギ奄美・野黒兎であることを始めて知った。

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 アマミノクロウサギ奄美野黒兎)

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固有種アマミヤマシギ

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アマミヤマシギ

三日目は民宿の知り合いが営むマングローブのカヌー体験と自然観察のツアーを紹介してもらった。奄美で教職を勤め定年退職した壮健な島人とその息子が運営する「ウトロベース」( HPあり)という名前のネーチャー・ガイドのイベント(およそ3時間で参加費4000円)だった。

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ウトロベースを運営する橋本明和・大輝さん親子

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ウトロベースの基地

参加者は他の民宿に泊まる妙齢のふたりのご婦人と自分の三人だった。ツアーは案内をしてくれた橋本家のかつて田圃だった私有地にある作業小屋に集合し、短いレクチャーで始まった。奄美では二本の川が合流する吃水地域に国内第二位の広さのマングローブが広がっている。ちなみに第一は西表島にあるマングローブだそうだ。浅瀬にメヒルギとオヒルギが鬱蒼とした森を形成している。オヒルギに比べてメヒルギは葉が小さい。蟹やシャコ、大シジミリュウキュウアユやボラの稚魚などさまざまな生き物が生息する。クロダイも餌を求めて回遊している。今では漁をするものはなく自然のままの姿を留めている。

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カヌーを浮かべる準備

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      すぐ近くを県道58号が走る

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ガイドの橋本くんが撮ってくれたおもしろパノラマ写真

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舟着場

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 (笑顔がかわいい好漢、ガイドの橋本大輝くん)

この日は朝十時が満潮の時間だった。干潮時は干上がってしまいカヌーが進めなくなるので潮時をみて舟を出す。マングローブとは木の名前ではなく浅瀬に広がる森を指す言葉だという。ゆらゆらと潮に流されながらのんびりのカヌー・ツアーはこの島の時間を満喫するのにふさわしい。

複雑に入り組んだ浅瀬の森を回遊しベースに戻った。ウトロベースはかつて橋本家の水田だった。道のないころは対岸から舟で耕作に来ていたという。今は特産品の柑橘類タンカンの畑となっている水田跡を抜けて緩やかな山道を登って行くと葉の大きなクワズイモや緑濃いシダ、背の高いヘゴ(ヒカゲヘゴ)の木が生い茂る原始の森にたどり着いた。ヘゴの木の根元は太く広がっていて腐りにくく、昔は死者の棺桶に使っていたという。空を大きな葉が塞いでいる。植物の種類や言われの解説を聞きながら歩く。陽の光を遮る森の中は鳥の鳴き声に満ちていた。大きな啼き声のルリカケスは繁殖の時期を迎えているそうだ。

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亜熱帯の森

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ゼンマイのようなヘゴの上部

亜熱帯の森体験は正午過ぎに終了。午後の当てはとくになっかった。同行の女性二人は宿の車が迎えに来て次の予定に出かけて行った。昼食をどうするか思案しているとガイドをしてくれた橋本くんが近所の知り合いの店に案内してくれるという。地元の食堂は不定期休が多い。最初に訪ねた古民家で郷土料理を出すオバアの店は休みだった。二軒目は「たこ福」食堂。泊めてもらった民宿のすぐ近くの店だった。入るとメニューの品目が少ない。たこ焼きとラーメンとそばめしだけだった。そもそもここはたこ焼き屋のようだ。次々と持ち帰りの客が訪ねてくる。

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特性「オムそばめし」

「そばめし」(?)が面白そうなので「オムそばめし」を注文した。出てきた料理は見かけはオムライスだ。表面にたこ焼きのようにケチャップとマヨネーズがかけてある。食べてみるとなかにはソース味の柔らかく炒め煮にしたそばとお米が入っていた。おそらくこの地のジャンクフードなのだろう。味はなんとなくもんじゃ焼きのようだった。

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もんじゃ焼きのようなそばめし

ひと息いれて、午後の観光は島の北部を訪ねることにした。ふたたび奄美空港の前を通り過ぎて北に向かう。「あやまる岬」の看板が見えたのでとりあえずここに向かった。なぜか「あやまる」のである。由来は不明。

美しく広がる遠浅の白い水辺には海水プールが設えてあり、海岸に面して色とりどりの遊具がある公園施設(「あやまる岬観光公園」)になっていた。幼い子供を連れた家族連れが公園内の足漕ぎ遊具を楽しんでいた。SLを象ったものもあった。音だけ蒸気機関車の汽笛が流れていた。

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あやまる海岸観光公園

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北部の観光案内板

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純白の浜

ここから引き返し明日の飛行機に乗るまでの間の午前中に残りの北部を一周することにした。

島の北部は奄美市笠利地区というようだ。今回は予定外のひとり旅になったので次に来る機会の下調べのつもりで北部を集中的に見て回るのも悪くないだろう。今夜の宿に向かう途中、もう一箇所土盛海岸に寄り道した。奄美の海はどこも白い砂浜の先にさまざまな色合いの青色を呈して広がっている。

札幌の友人の葬儀に参加した家内からメールが届いた。新千歳空港も札幌市内も人影はまばらで閑散としている。飛行機の乗客は定員の三割もいないとあった。北海道各地で次々と発生した新型コロナウイルス感染の影響だ。驚いたことに義弟から、家内のひとつ下の従姉妹と叔母が感染して入院したと連絡があったいう。しばらく会っていないが、両名とも今のところ症状は軽いという。この一世紀ものあいだ経験したことない凶悪な疫病がすぐ身近に迫っている恐怖を感じる。ふたりの病状が大事に至らないことを祈るばかりだ。

三泊目の夜は大島支庁や大きな県立大島病院のある名瀬町の港に面した古いビジネスホテルに泊まった。東京の大学二校から来た合宿の学生が泊まっていた。なんの合宿かはわからなかった。夕食はホテルから歩いて十分程度にある繁華街に行った。島唄で有名な居酒屋(吟亭)に入ると料理は郷土料理のコース(3500円)のみ、島焼酎はいっぱい400〜500円だった。この日は女将が不在で、代理で東京から帰省したばかりの女子大生(二十歳、娘か?)と幼さの残る中学2年のふたりの女性が三線と太鼓でライブ演奏をしてくれた。若過ぎてやや艶にかける島唄だった。絶品の郷土料理をすでに民宿でいただいたので、コース料理は少し物足りなかった。

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四日目の島は小雨のち曇り。最終日の午前中は島北部西側の笠利湾を左に眺め、赤木名の集落、野鳥の多い蒲生崎観光公園を巡り、海岸線に沿って走って東側の空港に着いた。さまざまな野鳥の啼き声を耳にしたが、田中一村の絵にしばしば登場するアカヒゲの姿を見ることはできなかった。次の訪問の楽しみができた。

昼過ぎのピーチ航空で成田に帰ってきた。

せっかく奄美の島にたどり着いたのに観光できずに帰ってしまった家内に島のお土産として小ぶりのバナナをお土産に買ってきた。

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( 小さ方が奄美尾島産アップル・バナナ)