秋田の名峰、乳頭山に登る

東北自動車道を盛岡インターチェンジで降りて一般道を走り、岩手県との県境の仙岩峠の茶屋を越え秋田県に入ると曲がりくねった山道につながる。道路標識にしたがって田沢湖から秋田駒ヶ岳を眺めながら桜並木の山道に入り近代的なホテルが建ち並ぶ田沢湖高原温泉郷を抜け、林の中の坂道を登って山奥へと進むと乳頭温泉郷に辿り着く。

その名にあるようにこの温泉郷の主(ぬし)の乳頭山は別名烏帽子山とも呼ばれ、秋田駒ヶ岳と尾根につながる眺望の山だ。その山懐に七軒の温泉宿が点在するのが乳頭温泉郷である。

今年のゴールデンウィーク後半はお気に入りの乳頭温泉郷黒湯の自炊棟で湯治をすることにした。乳頭温泉郷では鶴の湯が観光地として有名だが、我が家ではさらにブナの森を分け行った先の黒湯を贔屓にしている。歩くと鶯張りさながらのギシギシと音がする年季が入った木造の自炊棟を常宿にして、例年なら満開の桜とともに秋田の春を楽しむのがここ数年の五月の連休の我が家の年中行事だ。

(部屋の扉はなぜか傾いているがちゃんと開く)

(床の間もテレビもない簡素な客室)

黒湯温泉の湯は名前に反して半透明の白濁硫黄泉だ。すぐ脇を流れる黒湯沢を眺める混浴の露天風呂に浸かるとこの一瞬が人生であることを実感する。まだまだこれからも命が繋がる時間が無限にあるような気分になる。

めったに女性の入って来ない混浴の温泉棟の他にも天井の高い男女別の温泉棟があり、どこも内湯に加えて硫黄泉によって小気味よく変色した趣きある檜の露天風呂が設えてある。

朝九時から夕方まで湯めぐり号と名のつくマイクロバスや自家用車で訪れる日帰り入浴客で賑わうが、日が傾くと山の温泉宿は静寂を取り戻し、いつも温泉棟はひとり貸し切り状態となる。朝夕は朝焼けや夕陽に染まる源泉の噴気を暖かい浴槽から眺めることができ、屋根のない露天風呂につかれば深夜の五月の夜空には満天の星空の中心に北斗七星が頭上に輝いている。ちなみに混浴露天風呂には屋根があって空が見えない。

この温泉宿の名物に真っ黒な温瀬玉子がある。温泉ですっかり上気した入浴後の温泉客の多くが沢水で冷やされたラムネを飲みながら玉子を食べる姿がこの宿の風物詩となっている。

話によると黒湯の名前の由来はこの湯で卵を茹でると真っ黒な温泉玉子になることにあると聞いた。この温泉郷ではこの宿の温泉のみが卵を黒くするらしい。

初日は東北道の事故渋滞もあって、自宅から十二時間の長丁場の運転で宿に着き、すっかり持病の腰痛で腰が曲がり、痛みも激しくなってしまった。着いてすぐと深夜に、二度ほど温泉に浸かると不思議なほど腰痛は回復してしまい、二日目の朝にはすっかり元気になった。温泉の効能、恐るべしを実感した。

黒湯二日目はまる一日見事な快晴だった。

日本列島は各地ではやばやと夏日になったようだ。今年は早く春が来て、田沢湖からこの温泉郷に続く桜並木もすっかり新緑の葉に覆われていた。道沿いには残雪がところどころに残っているが、いつもの年に比べれば極めて少ない。この分なら軽アイゼンでも秋田駒ヶ岳にも空身で登れそうな気がした。

八合目の登山口まで車で入れるならばまだ登ったことのない早春期の秋田駒に登れるかもしれないと車を走らせてみた。でも案の定というか、残念ながら、まだ冬季閉鎖中の看板とともに進入禁止の柵で登山道は閉鎖されていた。これ以上ないような青空が広がる朝なのでこのままブナの森の散策ではもったいない。行けるところまででも温泉郷の盟主乳頭山に登ってみることにして黒湯に戻った。

乳頭温泉郷から乳頭山山頂への登山道には三つのルートがある。秋田駒ヶ岳から続く稜線を歩く経路、孫六温泉あるいは大釜温泉から田代平に建つ避難小屋を通るルート、黒湯から直接頂上へと続く登山道の三つのルートだ。

以前に秋の紅葉時季にこの山に登った時は黒湯から登り、田代平を経て孫六に下るルートを歩いた。この時はガスに覆われて眺望が効かず、頂上から周囲の峰々を眺めることは出来なかったので、ただ荒れた登山道を歩いた思い出しか残っていない。特に下山に使った孫六への道が酷くて水たまりと急登の泥道に辟易した記憶がある。

昨年のゴールデンウィークにも黒湯から乳頭山を目指したが残雪が多くルートが分からずに途中で引き返してきた。今年もどこまで行けるかわからないが、朝作っておいた弁当を担いで頂上を目指すことにした。

あまり登山者の多くない山だからか、途中の登山道を示すマーカーがほとんどなく、登山ルートがわかりにくい。今年は雪が少なくて残雪のところどころに夏道が出ていたおかげでなんとか登山道ルートを見つけることができた。去年は一面雪に覆われて踏み跡も分からずに退却したけれど、もう少し春山登山のためのルート表示を枝先にでも付けて欲しいと思う。

直登に近い急なブナの森の中を登り、陽当たりの良い南斜面を辿り、ようやく森林限界を越えて笹に覆われた尾根道に出ると視界が一気に広がった。

すぐ隣の秋田県一の標高を誇る駒ヶ岳の雪形が美しい。なだらかに横たわる八幡平と少し離れた独立峰の森吉山がよく見える。天気は眩しいほどの快晴だが風が強く、途中の森の中では汗をかいたウインドブレーカーでは少し寒いくらいだった。念の為ダウンの防寒着も背負ってきたが、着るほどではなかった。

高層湿原の田代平を見下ろしながら雪のない登山道を登ると岩に覆われた特徴的な頂上が見えた。その形が乳首のように見えるので乳頭山と名前が着いているのだろう。あるいは神社の神主が被る烏帽子にも似ている。頂上近くには今日初めて数人の登山者の姿も見えた。

乳頭山(標高1477.7メートル)は眺望の山だった。高度は神奈川県の丹沢山塊に近い。登山口から二時間五十分で頂上に立った。強風に煽られて飛ばされそうになる狭い頂上からは360度で北東北の山々が眺められた。頂上に立つのは2度目だが、前回とは全く違う経験に胸が弾んだ。年齢とともに昔とった杵柄も衰えて意気消沈してしまいそうになるけれど、まだまだ山に登れることができて嬉しくなる。運もあるだろうが挑戦する意欲が衰えないことが大切なのだと思う。病は気からなのだろうか、不思議と持病の腰痛の悪化はなかった。あるいは温泉の効果だろうか。

風を避け少し下って朝家内に作ってもらったガパオライス弁当を食べた。山の頂上で食べるほど美味い昼食はない。これを味わいたくて山に登っていると言っても大袈裟ではないように思う。

下山は来た道を降った。残雪を踏み抜いて靴の中はずぶ濡れになったが二時間少しで下山した。

登山道には青や白のキクザキイチゲや薄紅色のショウジョウバカマ、濃い黄色のスミレの仲間など可憐な花々が咲いていた。今回は行かなかった池塘のある田代平湿原にはきっと真っ白な水芭蕉も咲いていたのだろう。

全国に乳頭山と呼ばれる山はいくつもあるが、秋田の乳頭山は眺望が素晴らしい。名峰の名に恥じない山だと思う。元気であれば何度でも登りたい山である。

湯治三日目は乳頭温泉郷のブナの森の中に拓かれた「新・奥の細道」と名付けられた遊歩道を散策した。黒湯から孫六温泉大釜温泉、妙の湯、国民休暇村の五箇所の温泉宿を繋ぎ黒湯に戻る散策路だ。孫六は改修工事にため今年は休業していた。

途中、空吹湿原というこじんまりとした湿地帯がありちょうど水芭蕉が最盛期を迎えていた。こんな森の奥の湿原を訪れる人がいるのだろうかと思っていると、すぐ後から登山装備の男女が一組登ってきた。

さらに黒湯へと続く森の中を進むとゴーゴーと音を立てる施設に行き当たった。太い排水管からは熱い湯が出ている。風雪で霞んだ看板を起こして読んでみると遥か9キロ下方の田沢湖高原温泉郷に温泉水を供給する源泉施設ではあると記されていた。同様の源泉施設がここのほかにも二箇所あるとあった。こんなに離れた山奥から湯を引いているとは、温泉街だからと言ってすぐ近くに源泉があるわけではないことに改めて驚いた。

宿に戻り昼寝をして午後三時少し前に目を覚ますと、能登半島震度6強地震があったとインターネットのニュースになっていた。かつて新婚旅行で訪ねたことのある思い出深い珠洲(すず)の町が震源地の近くだった。幸い津波は起きなかったようだ。地震国日本。予測なく起こる地震ほど恐ろしいものはない。

湯治四日目は未明から激しい雨になった。屋根を打つ雨音で夜明け前に目が覚めた。雨に打たれて浸かる露天風呂にも味わいがあるので、はやばやと風呂に入りにいった。やや熱めの温泉に浸かりながらの冷たい雨が気持ちがよかった。

明日以降も数日は天気は荒れ模様の予報が出ている。もう森の散策も堪能したし、荷物をまとめて帰宅することにした。朝七時半過ぎに会計を済ませ、一般道を南下し道の駅巡りをして旬の山菜や秋田の珍しい食材を買い込み、秋田道湯田インターから高速道に入って帰って来た。途中久しぶりに通過した夜の首都高速道はスピードを出して行き交う車のヘッドライトが眩しくて恐怖だった。途中恒例の連休渋滞もあって帰路は十三時間かかった。

(美しく彩られた秋田地方の飾り寿司と野菜の寒天寄せ)

(大好物のタラノメの天ぷら)