日本は熱帯より暑い(台湾縦断記)

三泊四日で台湾に行った。

今回の台湾旅行は父の生まれ故郷である、台中の嘉儀を訪れるのがもっとも大きな目的だ。

南北にサツマイモのような形をした台湾は父の生まれ故郷の台中に位置する嘉儀が、亜熱帯と熱帯の分岐点だそうだ。

嘉儀はかつて林業で栄えた町だという。日本の統治時代には檜の伐採が盛んで、巨木に育ったヒノキ材は船に乗って神社や大きな建物の建築資材として日本に運ばれた。現在でも焼失した沖縄の首里城の再建の資材として輸出されているという。

私が高校を卒業した18歳の時に、父は肝がんで他界した。自分が幼少時に暗記させられた本籍地をgoogle mapで調べてみると、嘉儀市の中心部から西に少し離れた現在の朴子市中心地にある朴子配天宮が検索された。この周辺が父の生誕の地なのだと思う。

1906年、日本統治下の嘉義縣朴子鎮(現在の嘉義県朴子市)で生まれた父は、幼少期をそこで過ごした。まだ若かった父親(私の祖父)を海難事故で失い、母子家庭で育った父は旧制中学に進学し、その後台南師範学校(現・国立台南大学)に進学した。当時の朴子鎮は本当の片田舎で、旧制中学は現在の嘉儀市の中心部にあったようだ(台南州嘉義中学校)。きっと今回訪れた嘉義市嘉義北門駅近くに学生時代の父も足を運んだはずだ。師範学校を卒業した父は、東京の武蔵高等工科学校(元・武蔵工業大学(現・東京都市大学)の前身)に留学し、以後、終生日本に住んで62歳の生涯を終えた。

東京で専門学校を卒業したあと、父は事業家としての頭角を現す。働く若者を対象とした夜学の製図学校を開校し、製図や工学を教えていたこともあったようだ。検索すると設計製図に関する著作に「解り易い工業設計製図学」(日刊国際新聞社発行、1946年)という父が書いた専門書があった。この時期に電気洗濯機を発明して特許を取得し、その特許権を日本の電機メーカーに売却してたいへんな財をなしたと母から聞いている。ボストンバックに一杯の高額紙幣を持ち帰った父の姿を懐かしげに語る母の笑みを思い出す。

唯一我が家に残る父の著作

一時期は大阪を拠点に活動し、中之島のど真ん中にビルを所有して賃貸業も営んでいたことがあった。ビルの一階には高級ナイトクラブの「Play Boy」が入居しており、このレンガ造りのビルには五歳時に母親に連れられて、東京駅から特急蒸気機関車「つばめ」に乗って訪れた記憶が残っている。大阪から東京に拠点を移したあとは出版業に進出し、太平洋戦争終結直後には当時として貴重な印刷用の紙を大量に取得して事業を発展させた。自分の母親をモデルした長編小説(「中国未亡人」「夜明け前の女」)を書いて出版したり、東京の地下鉄の売店で売る夕刊紙(東京夕刊新聞)を発行していた時期もあった。また新宿歌舞伎町(当時は三光町と言った)にホテルを経営している時もあった。まったく多方面に才能のある偉才のひとだったと思う。

身長180センチを超える巨漢の父はいつ取得したのかは、柔道の有段者で整骨師の資格をもち、「昭和柔道史」(昭和14年刊)という著作も残している。一方、私たち子供にピアノを弾いて聞かせるような多芸のひとでもあった。

子供の頃は、東京の自宅に台湾から度々親族が訪ねてきて、特産品の乾燥竜眼肉や即席麺、中華菓子などたくさんの土産物をもらった記憶がある。残念ながら父の死後、台湾の親族とは疎遠になってしまい、現在も嘉義に親戚が住んでいるのかどうかは不明になってしまった。

父がなぜ遠く故郷を離れた日本の地を終の棲家としたのか、今では知るよしもないが、きっと日本が心から好きだったからに違いない。穏やかで心優しい日本人が好きだったのかもしれない。あるいは、美しい四季のある日本をこころから愛していたのかもしれない。私たち子供には中国語を学ばせなかったのは、きっと、子供達が平和で明るい日本に希望を見いだし、この地に永住することを望んでいたからではないだろうか。私たち家族は父の死後、日本に帰化日本国籍を取得し、日本が台湾を統治していた時代に一族が使っていた日本風の苗字に改姓した。

嘉義噴水鶏肉飯)

旅の二日目は嘉義市の中心部の鶏飯食堂で昼食を摂った。名物の鶏飯の加えて、へちま料理や郷土料理をたくさんが食べた。どれも味付けはあっさりしていた。特に麻婆豆腐は日本の中華街で食べるものとはまったく違う料理だった。この嘉儀のレストランばかりではなく、台湾のレストランの料理は全体に薄味で食べやすかった。暑い国なのに麺類を含めてはあっさりの味付けは健康に良い感じがした。

父が暮らした百年前のこの嘉儀の町がどのような光景だったのか、現在の町の風情から想像することは難しい。観光施設として、かつて材木の集積地であった嘉義北門駅(改装中だった)から歩いて五分の場所に当時の営林署の木造宿舎を再現した真新しい見学施設(檜意森活村)が設けられていたが、すべてお土産屋になっていて当時を偲ぶ材料にはならなかった。

(旧営林署宿舎を再現した檜意林活村)

今回の台湾訪問で、台湾の地に足を踏み入れるのは三回目になる。家族一同で訪れた初回も仕事がらみで来た二回目も台北だけに滞在した。今回はHK旅行社のツアーに参加して、桃園空港から台中(泊)、台南を経て、高雄(泊)へと台湾を縦断し、帰りは高雄(左営:サエ)から新幹線に乗て台北にもどり、有名な宮廷ホテルの圓山大飯店に泊まることがツアーのメインの短い三泊四日のお仕着せ旅だ。

広いバルコニーで宴会ができそうな圓山大飯店)

日本の九州ほどの面積に総人口二千三百万人あまりが住む台湾は西側には平野が広がり、中央部は三千メートル級の山々が連なり島を二分している。高山に遮られ海に面した東部には「花蓮」しか観光都市や大都市がない。

西側には高速鉄道(台湾高鉄、日本の新幹線を導入)が走り、台中市台南市高雄市台北市同様に高層建築が密集する大都会だ。日本の東京や大阪などの都会の風景とは異なり、まさに息苦しいほど建物どおしが密着し、所狭しと軒を連ねように高層ビルが建ち並んでいる。これらの都市と都市との間は広い河原をもつ幾本もの大きな川が流れる田園風景が続く。きっと肥沃な土地なのだろう、遠くまで緑濃い水田や畑が広がっていた。東部にはきっと西側とはまったく違う、かつての台湾の風情が残っているのだろう。いつか機会を作って、ぜひ訪ねてみたいと思う。

初日は成田から桃園空港に飛び、ここからバスで台中市まで移動し深夜にホテル到着し宿泊、二日目は台中市内観光(太平洋戦争日本人戦没者の遺骨を集めて祀る宝覚禅寺、大きな金の布袋像)、日月譚(ミニ箱根と呼ばれる山間の湖と孔子を祀る文武廟)、嘉義市(昼食と檜意林活村で休憩)、台南市(台湾からオランダ人を追放した英雄、鄭成功を祀る延平郡王祠)を経て高雄まで移動し高雄市内観光(龍の口から入り虎の口から出る厄落とし龍虎塔のある左営蓮池譚と漢方薬の神様、保生大帝を祀る廟、高雄大港大橋)。三日目は台湾高鉄(新幹線)で高雄から台北に戻った。台湾高鉄以外は借り上げバスで移動した。

宝覚禅寺

日月譚

台湾の英雄、台南市延平郡王祠の鄭成功

左営蓮池譚の龍虎塔は改修中

台湾の大学で日本語科を卒業したと自己紹介した六十歳前後の現地ガイドの日本語がおぼつかなく、しばらく考えないと説明の意味が理解できない場面が多かった。それでもおそらく三十年以上になるガイドの仕事は彼女の生き甲斐になっているに違いない。まるで小学校の教師のようにうるさいほど熱心に、バスの中ではずっと台湾の実情や観光案内を喋っていた。それに引きかえ観光地に着くと、後ろを見ずに、ひとりでスタスタと前に進んでしまい、定番の現地説明はごくわずかしかなかった。バスの中での、しつこいくらいの特産品とお土産屋の説明にはまったく閉口した。彼女の説明では、台湾は石の産地で、第一のお勧めは北投石のネックレスだった。すべての病気に効果があるそうだ。翡翠などの宝石よりも北投石を熱心に解説・宣伝していたのが印象的だった。

(十分で願い事を書いて天燈上げ)

舞い上がる天燈

(夕暮れ迫る九份

九份の街中からは海が見える

四日間の旅行中ずっと快晴だった。三日目は十分で願い事をぼんぼりに書き込んで天燈上げ、夕暮れ迫る九份では若者が溢れる狭い迷路のような街中を観光し、レストランで夕食を摂った。

帰国して成田の降り立つと、日本は熱帯の台南市より蒸し暑かった。日本は熱帯の暑さと四季をもつ特殊な国になった。この蒸し暑さは東南アジアの国々も叶わないに違いない。

お彼岸まであと一週間あまりになったが、暑さはいっこうに衰える兆しがない。