グラナダ_スペイン瞑想旅行

バスは乾燥地帯のアンダルシア地方を横断し、遠く雪を抱くシェラ・ネバダ山脈のたおやかな頂を望みながら、東方のグラナダへと向かった。

個人的にはグラナダというと哀愁を帯びたギターの独奏やマンドリンとのアンサンブルを思い浮かべる。以前にスペイン旅行のお土産に音楽CDをもらったことがあるからだ。表記がスペイン語のCDなので何と書いてあるのか判読不能だが、GRANADAと題する曲が2曲入っているし、有名な「アルハンブラの思い出」は聴けば多くの人が一度は耳にしたことがあると思う名曲だ。

キリスト教徒によるレコンキスタ(国土回復運動)によってイベリア半島の各地から駆逐されたイスラム教徒たちは、当時最大の拠点であったコルドバを放逸されたあと東方のこの町に移動し、彼等にとって最後となる王国を築いた。レコンキスタ終焉に彩を添えるイスラム最後ののナスル王朝は町を 見下ろす丘の上に新たな軍事基地を設けて対抗した。それがいまに姿を留めるグラナダだという。

バスツアー添乗員の話ではグラナダスペイン語で「柘榴(ざくろ)」を意味するとの説明だった。なぜ、柘榴が地名になったのか調べてみたいと記憶に留めた(帰国したら調べてブログに書いてみたいと思った)。

イスラムイベリア半島への侵攻は八世紀初頭(西暦711年)に始まった。この地を支配していた西ゴート王国の支配階級の混乱による統治の弱体化が発端だった。

侵攻はアフリカからジブラルタル海峡を越えて、わずかな(一万数千から二万人といわれている)イスラム兵力によってイベリア半島の南部の地中海沿岸から始まった。瞬く間にイスラムの兵士達は各地を制圧しながら北上し、その勢力はアンダルシアからラ・マンチャへと広がった。それほどに半島のキリスト教政治は軍事力や統治力を失っていた。イスラムは半島の広域を制圧しながら侵攻し、やがてトレドに都を築いてこの国に定着し、イベリア半島の北部の一部を除く広大な大地を支配した。この間、わずかに四年であった。

中世のヨーロッパの国家や王国は今の概念とはかなり違う。国とは都市国家を意味する。濠や塀を巡らし堅牢な城郭を築き、この城郭を軍事拠点として周囲の地域を統治した。アフリカからイベリア半島に侵入した当時のイスラム教徒は宗教に比較的寛容で、税金さえ払えばイスラム教への改宗を強要せず、多くの都市ではキリスト教ユダヤ教を始め多彩な信仰を持つ住民が混在し、開かれた文化都市の様相を呈していた。各都市国家にはヨーロッパや北アフリカアラブ諸国から科学者、哲学者、法律家など高度な技術や知識をもつ文化人が集められ、先進的な文化と文明が同時に花咲く状況だった。およそ七百年もの長い間、この地でイスラムの統治が続いた理由は当時の統治者の先駆的な施政方針や異文化への寛容に根ざしていたからだろう。

勢力を取り戻したキリスト教徒によるレコンキスタの進展でイベリア半島から徐々にイスラムが駆逐され、追い詰められた彼等が最後の砦を築いたグラナダには滅びゆくものの眩い美学と悲哀が漂う。華麗な宮殿に最後の輝きを灯した王朝が滅び、跡には後世までその美しさを讃えられるアルハンブラ宮殿が残された。グラナダを支配したイスラム王朝の滅亡は奇しくもコロンブスアメリカ大陸を「発見」した1492年だった。新たな時代の幕開けにふさわしいドラマチックな史実である。

現存する宮殿施設のほとんどは十四世紀に築かれたものだという。しかし、アルハンブラ宮殿の歴史は殊のほか古い。ここはローマ帝国が半島を支配していた時代に、すでに軍事砦があった。その後、八世紀からイムラムの支配時代となり、彼等が撤退するまでのおよそ七百年の間、粗末な砦から絢爛たる宮殿へと変貌して生き残った。広大な宮殿内には住民の居住区や自給自足の耕地を備えていた。

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(全景)

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(コマレス宮アラヤネスの中庭)

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(ライオン宮ライオンの中庭)

宮殿は見晴らしのよい丘の上に築かれ、随所に配置された中庭には池や噴水が設えられ花々が美しく咲き乱れている。涼しげな水の流れる回廊を散策の途中、眩しい光の中で視線を前方に向けると谷を隔てた向かいの丘に白い建物が見えた。厳しい暑さを凌ぐための夏の離宮だという。五百年の月日を経て観光施設となった現在でもかつてここに暮らした人々の息吹や祈りの言葉が耳に届くような気がした。とりわけ宮殿のなかでは栄華を極めた宮廷人の喜怒哀楽が今も色濃く漂うように感じた。

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(夏の離宮ヘネラリフェの遠景)

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(二姉妹の間の奥にあるリンダラハの望楼)

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(二姉妹の間天井装飾)

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(夏の離宮ヘネラリフェの中庭)

訪ねた日は快晴で、この地特有の強い日差しの中に佇む深緑の木々と赤い壁の建物が強烈な存在感を放っていた。あたりには静寂が満ち、整然とした幾何学模様のシンメトリーが無言でこの地の辿った数奇な運命を語っていた。歴史が生きていることを感じた。国土の再征服を成し遂げたキリスト教徒達がこの美しい施設を破壊せず守った理由がわかるようにに思えた。

夏の離宮(へネラリーフェ庭園)を散策し、観光に疲れて宮殿の入り口に戻った。日陰を求めて近くのベンチに座っていると風に吹かれて無数の綿毛が飛んでいることに気がついた。光を浴びてキラキラと輝いて漂うポプラの種子だった。

この日は市内のホテル(CORORADO DE GRANADA)に宿泊した。いつもは宵っ張りのスペインの街角もこの夜は日曜日で、ホテル周囲はどこも明かりを落して静かな休日の夜の帳の中だった。翌朝早く街の中を散歩してみると忙しげに仕事に向かう勤人が地下鉄乗り場に降りて行く、ごく平凡な地方都市の様相だった。

帰国して「柘榴」について調べると、グラナダの地名と果実の「ざくろ」の名前に直接の由縁はないようだ。たまたま同じ音韻だっただけというのが真実らしい。それでも現在はグラナダ市の紋章は柘榴を象っている。遊びのこころだろうか。

グラナダ

スペイン南部の人口三十万足らずの小都市。七百年に渡るレコンキスタ終焉の時代に、寒村の小さな砦だった土地を、イスラム最後の王国となったナスル王朝(1236年〜1492年)が軍事要塞として整備した町。丘の上のアルハンブラ宮殿が波乱の中世を今に伝える世界遺産である。宮殿は約百年の歳月をかけて整備され1391年に完成した。百年の栄華ののち、1492年にキリスト教徒による再征服による王朝崩壊後も新たな統治者に増改築されて現在の姿となった。市の紋章は柘榴のデザインである。

(まだまだ掲載したい写真がありますが、切りがないのでこれまでにします)