隠岐の島訪問記

モウモウドームでの牛の闘い

五月下旬になって、関東では少しはやい夏日を迎えた。汗まみれで仕事から帰ると、なぜか、沈む夕陽が蝋燭の炎のように見える観光写真で有名な隠岐の島ローソク島の写真を撮りに行きたくなった。もともと離島マニアである。およそ五十年に少し足らぬ以前、結婚してはじめての夏休みには小笠原諸島に渡ったことが我が家の数少ない自慢話であるほどだ(暑かった)。

意を決して、梅雨入り間近の六月になってすぐ、愛用のズームレンズに加えてずっしりと重い望遠レンズを背負い、大手旅行会社のツアーに潜り込んで、日本海に浮かぶ孤島・群島、隠岐諸島に旅行に行った。

初日、天気は絶好の撮影日和。美しい夕景が期待できる快晴だった。島内では爽やかな乾いたそよ風が吹いていた。このうえなく気持ちのよい午後が暮れてゆく。ところが、この風のせいで外海は波が高くなり、島北部のローソク島を洋上から見物する遊覧船が16時近くの出航直前になって、まさかの欠航とになってしまった。まったくの予想外の展開だった。ちょっと前に知床半島で観光船が沈没して大勢の死者や行方不明者が出たことも影響したのだろう。安全第一の策だろうが、最大のお目当てのローソク島の先端に夕陽が輝く奇跡の自然写真の撮影はあっけなくふいになってしまったのだ。写真撮影のことしか頭になかったので、配られたスケジュール表を予め見ておらず、その後は予備知識なしの島観光になった。

団体旅行なので予定されたスケジュール以外の自由行動の時間はなく、二泊三日の初日に計画されていた今回のツアーの最大目的は、上陸してわずか数時間であえなくおじゃんとなり、すっかり気落ちしてしまった。あとはもっぱら旅行社の計画にそった観光旅行だった。参加者17名のうち自分を含めた数名を除いて、あとは後期高齢者と思われる老人ばかり。まるで老健施設の慰安旅行のようだ。とは言うものの、あと数年で自分もその仲間入りなのだから、一期一会を大切にし、旅行ができる健康を心穏やかに喜ばなければならない。

隠岐諸島島根県に属し、大小180ほどの島々で構成される群島だ。有史以前、海水面が下がった氷河期には現在の島根県と陸続きで半島の様な構造の先端だったという。今も本州との間の海は浅く、せいぜい水深は80メートしかないという。

隠岐には大きな四つの島があり、島前(どうぜんと読む)には西ノ島、知夫里(ちぶり)島、中ノ島の三島と島後(どうごと読む)水道を挟んで隠岐の島(島後、隠岐の島町)が人の住む島だ。人口は二万人あまり。その他の小島は無人島だという。隠岐諸島は現在ではすでに死火山になっているが、いずれの島も太古の噴火で出来た火山の頂上が海面に突き出した島である。島前の三島は火口跡を内海してこれを取り囲むように位置し、もっとも大きな島後(隠岐の島)は大満寺山を最高峰(標高608メートル)とするほぼ円形の島である。この山は島根県伯耆富士(大山)からも見えるという。日本海の幸に加えて、肥沃な土地に恵まれ、里の幸も豊富な、暮らしやすいゆたかな島だそうだ。

この島が日本の歴史に登場するのは古く、日本最古の歴史書である古事記にすでに登場し、下って鎌倉時代から室町時代にかけては物語の表舞台にしばしば登場する。時の権力者である鎌倉幕府の転覆を企てた罪で後鳥羽上皇後醍醐天皇島流しにされ、後鳥羽上皇流刑地の島前の沖ノ島で生涯を終えている。以後、比較的身分の高い咎人の流刑の島としてしばしば歴史に記された。中世から近世にかけて瀬戸内海と蝦夷地を結ぶ北前船による海洋交易が盛んになると、風よけの島として日本海航路の要所となり、日本各地のさまざまな文化や慣習がこの小さな孤島にもたらされた。これらが根付いて独特の文化が育まれた。島内には大小150を越す神社がひしめき、さながら神々の集まる島の様相を呈している。今も古典相撲をはじめさまざまな独自の習慣と伝統をもつ島である。現役で活躍する大相撲の美形の関取、隠岐の海はこの島出身力士として有名だ。

以上の蘊蓄はほとんど現地在住の賑やかなバスガイドさんの受け売りである。さすがプロ、島のことはなんでも知っているのには感心した。

初日は羽田空港から大阪空港(伊丹)を経て空路隠岐の島空港へ飛び、予定のローソク島見物の遊覧船が中止になったのに旅行社は代替案を企画しておらず、水若酢(みずわかす)神社だけを参拝して、時間を繰り上げて早々とホテル(隠岐プラザホテル)に直行。せめてローソク島の眺められる展望台ぐらいには連れて行って欲しかった。夕食は白バイ貝と白いかの刺身等海鮮膳。

二日目は隠岐の島西郷港からフェリーに乗って西ノ島へ移動、バスでイカ寄せ海岸に面した由良比女(ゆらひめ)神社や国賀海岸観光を散策。昼食は別府港近くの焼き肉とお好み焼きの店(徳川)で松花堂風弁当と生牡蠣を食した。弁当は美味いとは言えなかったが生牡蠣は絶品だった。食後は腹ごなしに黒木御在所跡(後醍醐天皇行在所阯)を散策した。午後はこの日宿泊するホテルの遊覧船に乗り西ノ島国賀海岸を洋上から観光した。さらに船足を伸ばして外海のうねりの中を進み、知夫里島赤壁(せきへき)を船上から見物し、夕方、宿泊地に帰着。ホテル(シーサイドホテル鶴丸)に入る。夕食には大きな夏牡蠣(岩牡蠣)を再び賞味。

三日目は高速艇(ジェットフォイル)で島後(隠岐の島)の西郷港に戻り、バスで観光施設(モウモウドーム)で牛突きのデモンストレーション見物、すぐ近くの国分寺後醍醐天皇行在所阯)を観光し、またバスに乗り「中村のかぶら杉」(隠岐三名木のひとつ、本当は四名木あるそうだが)を見て、白島(しらしま)崎展望台に登る。その後、翌日がお祭りの玉若酢命(たまわかすみこと)神社(毎年6月5日が例祭、御霊会風流ごれいえふりゅう)を観光し、別府港に戻り港のお土産屋の二階(フィッシャーマンズワーフ)で海鮮丼で昼食(並)。14時50分隠岐空港発伊丹行飛行機で伊丹を経て、夕方、17時05分発羽田行きに乗り継ぎ、18時20分羽田空港着、19時半に帰宅。

水若酢神社

田賀海岸の放牧場

赤尾展望所から魔天崖と通天橋

田賀浜天上界の奇岩

田賀海岸

通天橋

牛突き

隠岐知夫里島赤壁

玉若酢命神社と八百杉(やおすぎ)

隠岐島国分寺後醍醐天皇行在所阯)

隠岐の島を一言で表現するなら大自然ジオパーク)と神々の島と言えるのだろう。

日本の神々は懐が深く、なかなかつかみ所がない。文化財の指定を受けている由緒ある神社をお参りしても、こころの中に崇高な神様の姿を想像することができないのは自分だけではないだろう。それでも多くの日本で育った人々は頭を下げて鳥居をくぐり、神殿の前に建つ拝殿で手を合わせ、賽銭箱に小銭を投げ入れて健康と繁栄を祈っている。それこそが伝統として受け継がれてきた日本固有の文化なのだろう。祈りの声が届いているのかどうかはあまり問題ではないのだ。天と地を結ぶあまたの神殿には八百万の神々がいつでも即座に降臨し、神様はとても身近にいる存在だからに違いない。島中が厳(おごそか)な神社で被われている隠岐の島訪問で感じたことはこのことが一番だった。