ハンミョウの道案内

ハンミョウの道案内

はやばやと4月も下旬になった。

連日のロシアによるウクライナ侵略報道にこころが疲れてしまう。共感疲労というそうだ。

気分転換に夏日になる予報の昨日、鎌倉アルプスを歩きに行った。

円海山から金沢自然公園を抜け天園の手前から瑞泉寺方向に下り永福寺跡で一休み。すっかり汗をかいた。

散策路にはウラシマソウやシロハナタンポポ帰化植物ツルニチニチソウが咲いていた。もう初夏を思わせるこぼれ日のなか、鳥たちの啼き声が賑やかだった。

下りの沢筋ではたくさんのハンミョウがお出迎え。

久し振りにハンミョウとともに歩いた。

遠くウクライナでもハンミョウが平和への道案内になってくれればいいのに、と思った。

桜見物二連ちゃん

今年は桜の当たり年だと思う。身延山に続いて先週末には二日続きで桜見物に出かけた。

土曜日(4/2)は立川の昭和記念公園記念公園と高尾の多摩森林科学園に行った。友人の AY 氏のお薦めだった。

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昭和記念公園

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昭和記念公園はJR 立川駅のそばにある。西立川駅は公園入り口につながっていて電車ならこちらが便利だろう。広々とした公園内は天気がよかったせいもあって若い家族連れで賑わっていた。立派な桜並木があり満開の桜が青空に映えて綺麗だった。噴水や遊具があって、あちらこちらに花畑がありチューリップをはじめ色々な花が咲いていた。丹精込めて手入れされていているのに人工的な雰囲気はそれほどないのは敷地がとてつもなく広いせいだろう。ぶらぶら歩いても全部歩き尽くすのには体力が必要だ。入口近くには貸自転車もあるので隈なく回るにはこの方が良いと思う。いずれにしても運動不足解消にはもってこいの公園だった。

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園内にも数ヶ所レストランや売店があるので午前午後と手ぶらで散策ができるが、この日は昼過ぎに切り上げて車で高尾駅そばの多摩森林科学園に移動した。

森林科学園は自然の丘や谷戸を利用して各種の植物が植えてある。季節限定のお目当ては多彩な桜の木だ。

明治時代以前に品種改良された各種の桜の木が日本各地から移植されて自然の中で博物館のように植えられている。江戸時代に桜の品種改良が流行したようで、サトザクラからいろいろな種類の桜が作られていることを知った。遊歩道が山の中を抜ける細い道のようになっていて見応えがあった。

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この科学施設はもともとは宮内省林業試験場が発祥の起源で、すでに開設から100年も経っていると掲示されていた。

日曜日(4/3)は生憎の雨と風の日だった。前々から今年は是非行ってみようと思っていたJR南武線の宿河原が最寄り駅の二ヶ領用水の桜並木に行ってみた。三百数十本の桜並木で、昭和三十年代に植えられたものだ。

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現在では立派な木に成長して用水を挟んで桜のトンネルとなっている。用水そのものは江戸時代初期、徳川幕府開幕後に稲作の水田拡大のために作られたもので旧稲毛領から川崎領の二つの領地に跨り、現在の川崎市を縦断するように作られ川崎の海に疏水を注ぐ。名前の由来はこの二カ所の領地に跨がることに由来する。昭和の高度成長期にはヘドロの川となってしまっていたが、現在では清流を取り戻している。川崎緑化センター周辺が花見には最適の場所だが、前日の雨と風ですでに大半の桜は散り始めていた。あと二日早く来ていれば重厚な桜の堤を歩けただろう。少し残念だった。また来年来てみたいと思う。

追記>水辺に咲いていた紫の花をずっとダイコンソウだと思っていたら間違いだった。ダイコンソウは野山に自生する黄色い花をつける植物で、これはムラサキハナナ(紫花菜)という草だった。オオアラセイトウともいい、菜の花と同じアブラナ科の植物で、菜の花同様に蕾をお浸しにすると美味しいらしい。中国では昔から食用の野菜として栽培されており、日本には江戸時代に入ってきたようだ。お浸し以外には胡麻和え、炒め物、サラダとしても美味しいとのこと。

 

身延山久遠寺日帰り桜見物

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久遠寺の枝垂れ桜

明日から新年度を迎える令和三年度最後の日に、青春18きっぷが残っていたので、山梨県身延山久遠寺に桜見物に出かけた。久遠寺は枝垂れ桜が有名な日蓮宗の総本山だ。

青春18きっぷは先週、山陰本線の旅で使った残りだ。山陰本線紀行はいずれ書きたい。

今年の三月下旬は寒暖の差が激しい日が続いた。それでも先週は数日続いて暖かい日があったので、桜が一気に開花して四月になる前に早々と満開を迎えてしまった。新型コロナウイルス感染も山を越えたし、これといった予定もなかったので、身延山に行って桜を愛でることにした。

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身延山久遠寺三門

朝六時半に自宅を出て、東海道本線を熱海、沼津と乗り継ぎ、富士で身延線に乗り換えて身延駅には十時半に着いた。駅前から山梨交通バスに乗って身延山久遠寺の三門に着くと次男一家に出会って驚いた。今朝電車に乗ってしばらくしてから身延山に行くことをメールしておいた。この身延山参りとはまったく無関係に彼らは息子の春休みに合わせて今日からキャンプに行くことは以前に聞いていた。どこに行くのかは知らなかったが、話を聞くと白州がキャンプの目的地でその途中で身延山に桜見物に立ち寄ったのだった。私の身延山花見旅は昨夜遅く決めたことだったので、まさかこの場で出会うとは夢にも思わなかった。こんな偶然はなかなかないだろう。

身延山の花見は二度目だ。前回はおよそ20年前になる。

三門を過ぎ杉の巨木に挟まれた恐ろしいほどの急勾配の石段(菩提梯、287段)を登ると一面桜に囲まれた久遠寺大本堂の建つ境内に辿り着いた。下を覗くと目が眩む。左脇には五重塔、右には祖師堂、報恩閣、御真骨堂、仏堂と一列に伽藍が並ぶ。満開のソメイヨシノを脇に従えて境内には樹齢四百年といわれる枝垂れ桜の巨木が春の盛りとばかりに花びらを四方に散らしていた。

石段は一気に登り切ったものの息が切れてしばらく鐘楼(大鐘)の脇のベンチで休まないと歩けない状態になった。孫達一家は何事もなかったように早々と本堂に登って行ったけれど付いて行けず、心肺能力が若い頃とは違ってしまったことを自覚した。けれども、この急登を登れたのだからまだしばらくは生きてゆくには支障ない気もした。まだまだ大丈夫だろう。

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久遠寺大本堂

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本堂をお参りして回廊のように繋がる建物を周回した。前回の参詣の記憶ではこんなに自由に寺の内部を歩けなかったように思う。途中、御真骨堂では日蓮聖人の生涯を描いた絵巻物の一部が展示されていた。身延山は聖人が佐渡島から帰還後に開山されたとあった。入滅はこの地ではなかったが、遺言により遺骨はここに埋葬されている。現在に息づく鎌倉仏教を開いた偉人達が多くの困難を乗り越えて後世につながる日本固有の仏教の礎を築いた。その双璧は親鸞日蓮である。ある意味、現代日本人の精神性の多くを彼らが造ったといえるのだろう。

参詣の後、斜行エレベーターで男坂の終点まで降り、桜並木に沿って急な坂を下った。三門から少し行った門前町の食堂でみんなで熱いホウトウを食べた。長男が甲府の大学に通っていた時以来の、久しぶりのホウトウ賞味だった。甲府近辺の味とは少し違って、味噌仕立ては同じだがややしょっぱい(からい)気がした。

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帰り道は身延から甲府、高尾、八王子と青春18きっぷを使ってJRを乗り継いで帰る。石和あたりでは車窓の景色を桃の花がピンク一色に染めていた。各駅停車の車両に揺られながらしだいに夕刻が近づくおぼろな景色を眺めつつ大月駅を過ぎるあたりでこのブログをほぼ書き上げた。鈍行旅行記の一丁上がりである。

八王子でJR横浜線に乗り換えると紙袋に花束を入れたスーツ姿の勤め人が停まる駅ごとに次々と乗ってきた。今日が年度末であることを思い出した。定年退職する人、転勤で職場を去る人、あるいは自己都合で離職する人たちなのだろう。各駅停車の電車は悲喜こもごも、さまざまな人生を支える生活手段としてなくてはならない足として貢献してきたことだろう。はからずも自分が職場を去った日のことが思い出された。もうずっと昔のことのような、昨日のことのような、複雑な思いがこみ上げてきた。

自宅には19時に帰還した。十二時間あまりの周遊旅行だった。

防災対策について

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照明、ラジオ、携帯用充電器

3.11 からわずか五日しか経っていない16日の深夜、なぜか目が覚めた。その直後にわずかな横揺れに続き大きな横揺れを感じた。時間はせいぜい数十秒だったと思う。揺れの感覚では震度3程度だと思った。

揺れが長かったので電気をつけようと枕元のライトに手を伸ばしたが点灯しない。 iPad を引き寄せてスイッチを押すがネットワークが繋がらないと表示された。Wi-Fiルーターの電源が切れている。テレビも点かない。

電気のブレーカーが落ちたのかと思った。起き上がって窓から外を見ると東側の建物には灯りがついているが、西側の住宅地は真っ暗だった。台所の水道は断水、トイレの水も流れない。玄関のドアを開けて集合住宅の中を見ると非常口の誘導灯もエレベーターも止まっている。停電だとわかった。

情報源はスマートフォンだけだった。NHKプラスを開くと、福島と宮城沖を震源とするマグニチュード7を超える地震が発生したとわかった。震源の位置は東日本大震災の時ときわめて近い。注意報に続いて、津波情報が延々と届く。

外から救急車のサイレンの音が聞こえてきた。街灯が切れ暗いなかに並ぶ屋根の間で赤いライトが点滅していた。見える範囲では火災は起きていないようだった。暗闇は恐怖を呼ぶ。いつまで停電がつづくのだろうかと不安になった。真っ暗な中、充電式のLEDライトを点けて明るさを取り戻した。旅行用に買っておいたものだ。

飲み水はペットボトル6本確保してあるから大丈夫。生活用水はベランダに30Lほど置いてある。トイレの水はこれでなんとかなるだろう。

食料はお米と燃料があれば困らないと思う。お湯を沸かすことできれば温かい飲み物が飲めるし、ご飯も食べられる。冷凍庫の中の食品が駄目になっても、レトルトカレーカップ麺もいくつか、冷やご飯用のお茶づけ海苔も常備している。燃料は卓上コンロと交換用のガスボンベでなんとかなるだろうし、キャンプ用のアルコールも少しはある。

こんな時に水や食料や燃料よりはずっと必要なのは情報に違いない。電気が途絶えるとテレビは使えない。電池式のラジオやインターネットにつなげられる機器の重要性をあらためて痛感した。充電さえされていればスマートフォンがリアルタイムに映像が確認できる一番心強い味方のような気がする。そのためにはいつも予備の充電器を満タンにしておかないといけないと思った。

災害はいつ襲ってくるか予測不能だ。交通網が遮断され、給水が止まり、電気が通らなくなっても、怪我さえしなければ3日間生き延びればなんとかなるだろう。

改めて、電源、照明、さらに情報を獲得するための通信機器の重要性を感じた。

まったく次元が異なるけれど、ウクライナでミサイル攻撃や砲弾の襲撃から避難している人々のことを思うと涙がでる。地震によるわずかな停電でも不安を感じるのに、いつ終わるともしれない理不尽な侵略による恐怖に晒されながら、地下壕や避難所で耐えている。多くの方々が絶望することなく、無事に生き延びてくれることを祈らずにはいられない。この残虐な行為をすぐにやめさせる手立てはないのだろうか。

あれから11年が経った

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東日本大震災から今日で11年が経った。巨大津波の襲来と福島第一原子力発電所の被災による放射線災害によって多くの住民が犠牲となり命を失いあるいは住む場所を失った。

被災地の棚上げや防潮堤の建設、生活道路の設営などの大規模工事はひと段落を迎えているが、今なお一万人以上の被災者が住み慣れたかつての住居地に帰還できない状態が続いている。あるいは除染がすでに終わっている被災地で再び放射能汚染が危惧される事態が出るなど、原子炉の放射能物質の処理を含め被災地の復旧には途方もなく長い年月が必要なことをあらためて認識させられる。

放射能汚染の続く地区にはこれからさらに数十年に渡り帰ることができない場所があることを現実として受け止めなければならない。汚染水はなす術もなく増え続け廃棄を含め差し迫った解決策を模索しなければならない現実にも眼を向ける必要がある。

避難した新しい場所ですでに十年を越して暮らす日々に、これからの新たな生き方、過去を顧みず前向きに新たな人生に向き合わなければ場面はさらに増えてくるのだろう。

目の前でかけがえのない家族を失った人々や築き上げた財産を手放してしまった人々の無念と悲しみは命ある限り消えることはないだろう。その胸の内の思いを持ち続けながら新たな人生に立ち向かわなけれならない苦労は幾許かと心が痛む。

しかし失ってしまったものはもう帰らない厳しい現実も受け入れて生きることが必要だろう。決して忘れてはいけないこと、でも思い出したくないこともたくさんあるだろうと思う。誰にでも残され時間は有限だから、限られた命の時間をしっかりと歩んで欲しいと願いたい。

世界で唯一の核兵器による被災国である我が国に天災とはいえ再び放射線災害が訪れことを想定していた国民はごくわずかであったろうと思う。

そんな閉塞感と哀しみの中で、ロシアによるウクライナ侵略の報道には怒りを感じる。歴史上最大の放射能汚染事故を引き起こしたチェルノブイリ原子力発電所を襲撃したロシア軍指揮官には怒りを通り越した憎悪を抱かざるを得ない。愚かな侵略行為を今すぐにやめるように叫びたい。恐怖で人を支配しようとする憎むべき行為を直ちに止めろと叫びたい。

プーチンはすでに狂っているとしか思えない。主義・主張や宗教、これまでの戦争の記憶と憎しみを超えて、全ての国の、すべての地球人がおぞましいプーチンによる侵略行為を直ちにやめるように力を尽くして欲しいと思う。

穏やかな追悼の志を持って震災記念を迎えたかったけれど、世界は危うい綱渡りの真っ只中にいる。被災して亡くなった方々の鎮魂のためにも世界が平和で、安全で、未来が希望で溢れていることを願って祈り続けたい。

不二の山

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三浦富士頂上の浅間神社奥宮

三浦半島には三浦富士と呼ばれる低山がある。標高は200メートル足らずの丘に近い山だ(標高183メートル)。横浜の円海山から始まる高みは横須賀を経て三浦半島の背骨にあたる三浦丘陵に連なる。その南の端に位置する頂が三浦富士だ。この手前に砲台山、武山の小さなこぶのような高みがあり三浦半島の突端へと繋がって太平洋に至る。

眼下には遠く西方の東京湾、足元には白く弧を描く三浦海岸をなす金田湾、東方には霞む相模湾が広がって、これらに挟まれた三浦富士の頂には浅間神社奥宮が祀られている。地元の漁師には漁場の目標として、あるいは漁の安全を祈願する信仰の頂として愛されてきた。

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相模湾を眺める

富士と名がついているものの姿形は屹立した美麗を示すわけではない。ふもとからは嶺続きの砲台山や武山の方がむしろ目立つと言ってよいが、かつては浅間山と呼ばれ、はるか昔に行基が開基と伝えられる浅間神社信仰と結びついて他の頂を差し置いて不二の山、三浦富士と呼ばれているのだろう。

春一番の吹いた翌日の日曜日、旧知のKH 氏の主催する山歩きの会に参加して京浜急行京急長浜駅から三浦富士に登った。このコースを歩くには今回が三回目だ。総勢15名の大きな団体が列になって歩いた。歳と共に少しずつ悪化する腰痛対策にはじっと座っているより少しでも歩くとある程度の効果があるような気がする。この日は前日よりも気温の低い日だったが日差しが明るく降り注いで気持ちの良いトレッキングができた。登り下りを繰り返し砲台山を経て武山の展望台から房総半島を眺め、持参の握り飯で昼食を摂った。展望台そばの古刹、武山不動尊は一面のツツジが見事な花の寺として有名だという(東国花の百ヶ寺)。すでにちらほら蕾が膨らんでいた。展望台を後に長い急坂を下り津久井観光農園に着いた。のんびりトレッキングツアーはここでイチゴ狩りの寄り道。整然と並ぶビニールハウスの前で途中すれ違ったボーイスカウトの子ども達に追い抜かれた。このあと京急線津久井浜駅前で解散して帰路に着いた。歩いた歩数は一万三千歩余り。約三時間半の穏やかなハイキングだった。

イチゴ園のビニールハウスではこの地で主に栽培されている品種の紅ほっぺの30分間食べ放題で料金が1600円だった。苺の最盛期が近づくにつれ料金が安くなる仕組みだそうだ。大粒の苺を10粒食べれば十分に元が取れるという触れ込みでハウスに入ったが、10分もしないうちに20個近くを平らげてしまい、がっつき過ぎで少し気持ちが悪くなってしまった。せっかくの苺も美味しいのは最初の数粒で、あとは惰性で食べすぎてしまい反省する始末だった。過ぎたるはなんとかだを身をもって体験した。でも大人も子どもも同じ料金だから、それほど食べられないだろう幼い子どもにはもう少し料金に工夫があってもういいように思った。

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全国には富士と呼ばれる頂きが340ほどあるという。地元では愛称として呼ばれるこれらの峰をふるさと富士というらしい。多くは日本のシンボル、富士山のような姿が秀麗な峰がこの名で呼ばれている。なかには三浦富士のように美しい立ち姿とは縁のない山もあるようだ。

北国の北海道には蝦夷富士(後方羊蹄山)、青森の津軽富士(岩木山)、岩手の南部富士(岩手山)に始まり、南は鳥取伯耆富士(大山)、鹿児島の薩摩富士(開聞岳)に至るまで、ふるさとの象徴として四季折々に眺められ、固有の名称とともに故郷の地名に富士(不二)とつけて郷土の誇りとして愛されている山。特に生まれ育った生家を離れて暮らすものにとっては古里の景色を代表する峰は深い哀愁とともに心に刻まれているに原風景に違いない。

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春の岩木山

東京で生まれた自分にとって富士といえば静岡と山梨に跨る霊峰富士山に他ならないが、故郷の山という感覚はない。自分にとって不二の山といえば、青春期から社会人となった人生前半に仰ぎ見た津軽富士、岩木山だろう。春夏秋冬、朝な夕な、津軽平野の春の林檎畑や冬の雪原の果てに凛と佇むこの山は、津軽に生まれ育った身ではないけれど、自分にとっての故郷の山、不二の山である。眼を閉じると躍動する津軽三味線の響きと共に短い夏を彩る薄明かりに浮かぶ扇ねぷたの行列、たわわに実った林檎畑の秋、雪虫の飛ぶ初冬、待ち焦がれた春、その背景に優美な津軽富士が見えるような気がする。

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二月下旬の弘前城

津軽弁には「じょっぱり」という言葉や「ごんぼほり」という方言がある。この地方に住むものにしか理解が難しい方言だ。大都会の東京を離れずに首都圏の大学を卒業し摩天楼の中で暮らす人生を過ごしていたかもしれない暮らしとは全く違う今の生業を切り開く勇気と覚悟は、津軽富士を仰ぎながら心に響く津軽の言葉の中で暮らした日々があったからこそ培われたと確信している。

ふるさとは遠きにありて思ふもの

今では新幹線に乗れば日帰りもできる津軽ではあるけれど、室生犀星の抒情小曲集に記されたような遠くのふるさとを持つことができたのは人生最大の幸運だったと思う。時々、当時を思い出して本州の北の果てを彷徨いたくなる。

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厳冬の八甲田山雪の回廊

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雪に埋もれる酸ヶ湯温泉



 

春一番と蕗の薹

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今日、関東地方に春一番が吹いた。例年より随分と遅い風の日だった。気温が上がり日差しも暖かくて春の到来を肌身で感じた一日だった。

いつものようにバスに乗って大船まで行き、あとは徒歩で鎌倉の尾根を目指した。そこかしこに紅白の梅の花が開き道端には水仙の隣にタンポポの黄色い花が咲いていた。源氏山では早咲きの桜にも出会った。

夕食は妻が友人にもらった蕗の薹を天ぷらにして食べた。庭で採れたものだという。わずかに苦味のある春の味だった。

春の兆しを満喫しながら平和の幸せを感じた。わずか時差7時間の黒海のほとりで、ロシアのミサイルや火砲によって無差別攻撃が続いているウクライナの人々を思うと胸が張り裂けそうになる。せめてこどもや老人が無事避難できることを祈るばかりだ。

今年の春は苦い味がする春だ。