オオコンニャクの花を見にゆく

東京の小石川植物園ショクダイオオコンニャクの花を見に行った。

小石川植物園には初めて行く。小学校の遠足でも行った記憶がない。都営地下鉄白山駅から10分たらずの東京のど真ん中に鬱蒼と繁る森の植物園は紅葉が見頃。ニュートンの林檎の木やメンデルの葡萄の木があって面白い。

ショクダイオオコンニャクは二年に一度、二日間しか咲かないという世界最大の花を咲かせる植物で、大きな花とともに強烈な匂いが特徴らしい。

温室の中の鉢植えの大きな植物が目当てのショクダイオオコンニャクだった。残念ながら開花にはあと数日が必要な大きな蕾だった。尖った先端は白菜の芯かチコリのようで、立派な立ち姿に感動した。開花前だったので匂いは全くなかった。

オオコンニャク見物のあとは神宮外苑の銀杏並木を見に行った。

もう紅葉の盛りは過ぎていて、銀杏の先端の葉はだいぶ少なくなっていた。それでもすごい人手だった。中国人や韓国人の若い女性が落ち葉を手に取りセルフポートレートを撮っているのが目立った。

この後、遅い昼ごはんを以前から妻が一度は食べてみたいと言っていたカレーチェーン店、CoCo壱番屋で定番のポークカレーとビーフカレーを食べた。退職前は職場のすぐ目の前に店があったのでよく食べていたけれど、久しぶりのこれぞ日本の国民食は結構辛くてまた新鮮な印象で美味かった。

京都大阪三泊四日旅

紅葉の季節になったので、何はともあれ関西観光に出かけた。

初日の京都では圓光寺の紅葉観光、知恩院の庭園見物、二日目は嵐山の渡月橋散策と川沿いのどん詰まりにある大悲閣千光寺参拝。午後から大阪に移動して通天閣を仰ぎ見て新世界で串かつで夕食、三日目は堺に脚を伸ばして仁徳天皇陵履中天皇陵を散歩、午後は大阪城に登り、夕食は肥後橋のホテル近くで薄味の関西風おでんを食べた。四日目の午前中に京都に戻り北野天満宮で孫のカン君の高校受験を間近に控えて合格祈願お守りの入手と雨に打たれてながら参道で朝食代わりにお好み焼きとたこ焼きを試食。昼の新幹線に乗る前に改札口脇の売店で以前から話にきいていて一度は食べてみたかった551蓬莱の豚まんを買い込み、ついでに目にしたちまきとシュウマイも買って車中で缶ビールを飲みながらお昼にした。自宅には午後2時前に着いた。

観光シーズン真っ只中の京都はどこも観光客で溢れ、市営バスはまさにすし詰め状態だった。きっと地元住民にとっては押し寄せる観光客は迷惑以外の何者でもないだろう。コロナ禍がひと段落した観光地には一時は姿を見なかった中国やヨーロッパからも多くの観光客が訪れ、バス停もコーヒースタンドも、何処も長蛇の列だ。

大阪ではちょうど阪神の優勝パレードが終わった直後だったので、ここも人人人でごった返しだった。38年ぶりの日本一に輝いた地元チームのパレードに歓喜の涙と雄叫びで喉を枯らしたに違いない黄色いユニフォームを着込んだ熱狂的なファン達はみな笑顔に溢れていた。

大阪でもけたたましく大きい声を張り上げてまるで喧嘩腰のように話すアジア人の観光客だらけだったが、大阪城は意外に空いていてすぐ入城できた。

こたびの京都の紅葉は圓光寺の庭園。たまたま出発数日前の朝日新聞天声人語にこの寺の紅葉が見事と書いてあったので、今回の紅葉見物はここにした。小さい寺ながらも見事な景色だった。やっぱり古都の秋は素晴らしい。一度に色々な場所を尋ねると印象が混乱するので京都の紅葉狩りの旅では、一箇所だけを訪れることをルールにしている。

朝早くの渡月橋は静寂に佇む。朝一番の橋上には観光客はまばらだ。嵐山の紅葉はモヤがかかってぼんやりしていた。それはそれで風情があってよかった。保津川では大きな白鷺や太った青鷺が小魚を捕まえ朝食にしていた。川が豊かなのだ。

朝、小倉山の展望所まで登り向かいの嵐山の紅葉を眺めて、また川面まで下って渡月橋を渡り川沿いの道を上流に向かって歩いて行くと突き当たりに大悲閣千光寺への登り道があった。ひっそりとして嘘のように人影もまだらだった。先程展望所から見えた朽ちかけた寺の観音堂から向かいの小倉山の紅葉や京都を取り囲む峰々が眺望できた。

嵐山の山中にある千光寺の真下の川沿いには真新しい小さな舟付場のある星のリゾートの旅館があった。以前は別の名前の旅館で星のやではなかったように思う。

昼近く帰り際の保津川の川面には観光船に混じって緩やかな流れに浮かぶ手漕ぎのボートがいっぱいでまるでお堀のボート場のような混雑になっていた。でも、それはそれで秋の景色になっていた。

大阪観光の目玉は威風堂々、立派な通天閣だった。あたりを威圧するかの如く角ばった塔の建つ新世界には関東ではもう見なくなった昔懐かしい射的の店が軒を連ねているのには驚いた。コテコテの関西に心が躍る。長年の憧れの通天閣だが、入館料がひとり1200円とバカ高かったので眺めるだけで満足して、若者達で賑わう新世界界隈の串カツ屋に入って夕食にした。大阪名物の串カツ発祥の店、元祖「だるま」新世界本店に入りたかったが、間口がニ間ほどの数人でいっぱいになるカウンターだけの小店で入れず、そばの由緒あり気な「ぎふや」に飛び込みで入った。なかなかどうして美味しい串揚げを堪能できた。以前に食べた串の坊法善寺本店と遜色ない味だ。料金は比べられないほど安い。新世界は下町の風情満開。

お好み焼きに並ぶ大阪名物は串カツ。油の大鍋の前に立って次々と来る注文に答える店員さんはアジア系外国人だったが、手際よく注文を捌いていて見ていて気持ちよい働きぶりだった。しっかりお給料を払ってもらって欲しいと思った。

小学校の教科書にも載っている、一度は来てみたかった巨大な仁徳天皇陵。本当は誰の墓なのか詳細は謎に満ちた世界最大の墓陵の拝所では観光ボランティアが熱心に説明をしてくれた。ここは宮内省の管理地だが、すぐそばのビジターセンターのシアター映像は説明が貧弱で、ただ皇陵の上空からの風景を映し出すだけでつまらなかった。世界遺産に付設されたこの公共の施設には、おそらくはここを訪れるほとんどの人が見学に足を運ぶであろうから、もう少し凝った内容と重厚な工夫が欲しい。むしろ近所のパン屋で買った前方後円墳を模った名物菓子パンの方が珍しく、微笑しかった。華麗な日本庭園のある大仙公園を隔てたもうひとつの皇陵の履中天皇陵にもお参りした。ふたつの古墳は当時の堺湾を航行する外国船から眺められたという。国威発揚の象徴だったのだ。古代史のロマンを今に伝える貴重な遺産だ。

幾度となく訪れている大阪だが、未体験の大阪城見物。最上階からは高層ビルの間に前日訪ねた通天閣が見えた。ここはお城の形をした現代博物館だった。

今回の旅行で最も感激したのは初日に泊まった京都駅前の老舗旅館松亀だった。今はもうない実家に帰ったような昭和の懐かしい匂いがする宿だった。簡素な作りの日本家屋だったが、おもてなしの心に溢れた温かい対応が心に残った。京都の定宿は今度からここにしたい。

意外だったのは帰りの車中で食べた551蓬莱の豚まんがそれほどでもなかったことだ。ずっと一度は食べたいと思っていたけれど、値段も一個210円とお手軽なせいか、横浜中華街の華正楼や江戸清のものとは全く違うものだった。豚まんはやっぱり横浜に限る。シュウマイもイマイチだったが、ちまきはそれなりに美味かった。

北国ではもう雪のチラつく毎日となり、食欲の秋ももうすぐ終わりに近づいている。年とともに寒さが身に染みる冬を間近にして、さてこの次はどこに行きこうと考えている。

 

日本は熱帯より暑い(台湾縦断記)

三泊四日で台湾に行った。

今回の台湾旅行は父の生まれ故郷である、台中の嘉儀を訪れるのがもっとも大きな目的だ。

南北にサツマイモのような形をした台湾は父の生まれ故郷の台中に位置する嘉儀が、亜熱帯と熱帯の分岐点だそうだ。

嘉儀はかつて林業で栄えた町だという。日本の統治時代には檜の伐採が盛んで、巨木に育ったヒノキ材は船に乗って神社や大きな建物の建築資材として日本に運ばれた。現在でも焼失した沖縄の首里城の再建の資材として輸出されているという。

私が高校を卒業した18歳の時に、父は肝がんで他界した。自分が幼少時に暗記させられた本籍地をgoogle mapで調べてみると、嘉儀市の中心部から西に少し離れた現在の朴子市中心地にある朴子配天宮が検索された。この周辺が父の生誕の地なのだと思う。

1906年、日本統治下の嘉義縣朴子鎮(現在の嘉義県朴子市)で生まれた父は、幼少期をそこで過ごした。まだ若かった父親(私の祖父)を海難事故で失い、母子家庭で育った父は旧制中学に進学し、その後台南師範学校(現・国立台南大学)に進学した。当時の朴子鎮は本当の片田舎で、旧制中学は現在の嘉儀市の中心部にあったようだ(台南州嘉義中学校)。きっと今回訪れた嘉義市嘉義北門駅近くに学生時代の父も足を運んだはずだ。師範学校を卒業した父は、東京の武蔵高等工科学校(元・武蔵工業大学(現・東京都市大学)の前身)に留学し、以後、終生日本に住んで62歳の生涯を終えた。

東京で専門学校を卒業したあと、父は事業家としての頭角を現す。働く若者を対象とした夜学の製図学校を開校し、製図や工学を教えていたこともあったようだ。検索すると設計製図に関する著作に「解り易い工業設計製図学」(日刊国際新聞社発行、1946年)という父が書いた専門書があった。この時期に電気洗濯機を発明して特許を取得し、その特許権を日本の電機メーカーに売却してたいへんな財をなしたと母から聞いている。ボストンバックに一杯の高額紙幣を持ち帰った父の姿を懐かしげに語る母の笑みを思い出す。

唯一我が家に残る父の著作

一時期は大阪を拠点に活動し、中之島のど真ん中にビルを所有して賃貸業も営んでいたことがあった。ビルの一階には高級ナイトクラブの「Play Boy」が入居しており、このレンガ造りのビルには五歳時に母親に連れられて、東京駅から特急蒸気機関車「つばめ」に乗って訪れた記憶が残っている。大阪から東京に拠点を移したあとは出版業に進出し、太平洋戦争終結直後には当時として貴重な印刷用の紙を大量に取得して事業を発展させた。自分の母親をモデルした長編小説(「中国未亡人」「夜明け前の女」)を書いて出版したり、東京の地下鉄の売店で売る夕刊紙(東京夕刊新聞)を発行していた時期もあった。また新宿歌舞伎町(当時は三光町と言った)にホテルを経営している時もあった。まったく多方面に才能のある偉才のひとだったと思う。

身長180センチを超える巨漢の父はいつ取得したのかは、柔道の有段者で整骨師の資格をもち、「昭和柔道史」(昭和14年刊)という著作も残している。一方、私たち子供にピアノを弾いて聞かせるような多芸のひとでもあった。

子供の頃は、東京の自宅に台湾から度々親族が訪ねてきて、特産品の乾燥竜眼肉や即席麺、中華菓子などたくさんの土産物をもらった記憶がある。残念ながら父の死後、台湾の親族とは疎遠になってしまい、現在も嘉義に親戚が住んでいるのかどうかは不明になってしまった。

父がなぜ遠く故郷を離れた日本の地を終の棲家としたのか、今では知るよしもないが、きっと日本が心から好きだったからに違いない。穏やかで心優しい日本人が好きだったのかもしれない。あるいは、美しい四季のある日本をこころから愛していたのかもしれない。私たち子供には中国語を学ばせなかったのは、きっと、子供達が平和で明るい日本に希望を見いだし、この地に永住することを望んでいたからではないだろうか。私たち家族は父の死後、日本に帰化日本国籍を取得し、日本が台湾を統治していた時代に一族が使っていた日本風の苗字に改姓した。

嘉義噴水鶏肉飯)

旅の二日目は嘉義市の中心部の鶏飯食堂で昼食を摂った。名物の鶏飯の加えて、へちま料理や郷土料理をたくさんが食べた。どれも味付けはあっさりしていた。特に麻婆豆腐は日本の中華街で食べるものとはまったく違う料理だった。この嘉儀のレストランばかりではなく、台湾のレストランの料理は全体に薄味で食べやすかった。暑い国なのに麺類を含めてはあっさりの味付けは健康に良い感じがした。

父が暮らした百年前のこの嘉儀の町がどのような光景だったのか、現在の町の風情から想像することは難しい。観光施設として、かつて材木の集積地であった嘉義北門駅(改装中だった)から歩いて五分の場所に当時の営林署の木造宿舎を再現した真新しい見学施設(檜意森活村)が設けられていたが、すべてお土産屋になっていて当時を偲ぶ材料にはならなかった。

(旧営林署宿舎を再現した檜意林活村)

今回の台湾訪問で、台湾の地に足を踏み入れるのは三回目になる。家族一同で訪れた初回も仕事がらみで来た二回目も台北だけに滞在した。今回はHK旅行社のツアーに参加して、桃園空港から台中(泊)、台南を経て、高雄(泊)へと台湾を縦断し、帰りは高雄(左営:サエ)から新幹線に乗て台北にもどり、有名な宮廷ホテルの圓山大飯店に泊まることがツアーのメインの短い三泊四日のお仕着せ旅だ。

広いバルコニーで宴会ができそうな圓山大飯店)

日本の九州ほどの面積に総人口二千三百万人あまりが住む台湾は西側には平野が広がり、中央部は三千メートル級の山々が連なり島を二分している。高山に遮られ海に面した東部には「花蓮」しか観光都市や大都市がない。

西側には高速鉄道(台湾高鉄、日本の新幹線を導入)が走り、台中市台南市高雄市台北市同様に高層建築が密集する大都会だ。日本の東京や大阪などの都会の風景とは異なり、まさに息苦しいほど建物どおしが密着し、所狭しと軒を連ねように高層ビルが建ち並んでいる。これらの都市と都市との間は広い河原をもつ幾本もの大きな川が流れる田園風景が続く。きっと肥沃な土地なのだろう、遠くまで緑濃い水田や畑が広がっていた。東部にはきっと西側とはまったく違う、かつての台湾の風情が残っているのだろう。いつか機会を作って、ぜひ訪ねてみたいと思う。

初日は成田から桃園空港に飛び、ここからバスで台中市まで移動し深夜にホテル到着し宿泊、二日目は台中市内観光(太平洋戦争日本人戦没者の遺骨を集めて祀る宝覚禅寺、大きな金の布袋像)、日月譚(ミニ箱根と呼ばれる山間の湖と孔子を祀る文武廟)、嘉義市(昼食と檜意林活村で休憩)、台南市(台湾からオランダ人を追放した英雄、鄭成功を祀る延平郡王祠)を経て高雄まで移動し高雄市内観光(龍の口から入り虎の口から出る厄落とし龍虎塔のある左営蓮池譚と漢方薬の神様、保生大帝を祀る廟、高雄大港大橋)。三日目は台湾高鉄(新幹線)で高雄から台北に戻った。台湾高鉄以外は借り上げバスで移動した。

宝覚禅寺

日月譚

台湾の英雄、台南市延平郡王祠の鄭成功

左営蓮池譚の龍虎塔は改修中

台湾の大学で日本語科を卒業したと自己紹介した六十歳前後の現地ガイドの日本語がおぼつかなく、しばらく考えないと説明の意味が理解できない場面が多かった。それでもおそらく三十年以上になるガイドの仕事は彼女の生き甲斐になっているに違いない。まるで小学校の教師のようにうるさいほど熱心に、バスの中ではずっと台湾の実情や観光案内を喋っていた。それに引きかえ観光地に着くと、後ろを見ずに、ひとりでスタスタと前に進んでしまい、定番の現地説明はごくわずかしかなかった。バスの中での、しつこいくらいの特産品とお土産屋の説明にはまったく閉口した。彼女の説明では、台湾は石の産地で、第一のお勧めは北投石のネックレスだった。すべての病気に効果があるそうだ。翡翠などの宝石よりも北投石を熱心に解説・宣伝していたのが印象的だった。

(十分で願い事を書いて天燈上げ)

舞い上がる天燈

(夕暮れ迫る九份

九份の街中からは海が見える

四日間の旅行中ずっと快晴だった。三日目は十分で願い事をぼんぼりに書き込んで天燈上げ、夕暮れ迫る九份では若者が溢れる狭い迷路のような街中を観光し、レストランで夕食を摂った。

帰国して成田の降り立つと、日本は熱帯の台南市より蒸し暑かった。日本は熱帯の暑さと四季をもつ特殊な国になった。この蒸し暑さは東南アジアの国々も叶わないに違いない。

お彼岸まであと一週間あまりになったが、暑さはいっこうに衰える兆しがない。

 

松茸ごはんと秋の気配

まだまだ蒸し暑い日が続くが、台風の群発にともない関東では最高気温が35℃を下回る日がみられるようになって、ようやく真夏が終わる時期に近づいてきたことを感じる。秋の気配だ。

地元のお弁当の老舗「崎陽軒」で秋の季節限定のお弁当を売り出すという記事を見たので、デパート開店間際を見はからて買いにいったが、すでに売り切れの貴重品だった。なんとかひとつだけ購入して帰ってきた。

お昼ご飯はこの弁当なので、もうひとつは定番弁当の「秋味弁当」にした。値段は松茸ご飯弁当が千五百円、舞茸ごはんの弁当が七百八十円と大きな差がある。

お弁当だけでは寂しいので、帰りに近くのスーパーマーケットで松茸味のお吸い物の素を買って帰った。

ひとつだけゲットできた松茸ご飯の松花堂弁当は妻の分、私は定番の秋の弁当を食べた。松茸ご飯弁当には薄く切った松茸が一切れだけ入っていた。これが日本人の秋の味覚。その半分だけもらって大事に賞味した。舞茸味の秋味弁当も十分おいしかったが、ほんの少しだけ味わった松茸の風味もうまかった。

ささやかな庶民の贅沢こそ、歴史に残る文化だ(でももっと松茸食べたいな)。

いろいろとダメなことも多い国だけど、食べものの美味しい日本は、やっぱりいい国だね。

上高地は日本のアルプス基地

夢のようなスイス旅行の余韻が覚めぬなか、蒸し暑さに辟易して、上高地にキャンプに出かけた。

自宅を朝5時に出発、沢渡でタクシーに乗り換えて上高地小梨平キャンプ場に10時すぎに着いた。涼しい。上高地の気温は25℃だったが、蒸し暑さは感じない。夏休みも終わって、キャンプ場にはまばらにテントがあるだけの静かな光景が広がっていた。

さしずめ上高地はスイスのツェルマットだろうか。こちらの方がずっと上品な雰囲気だけれど。あるいはスイス国内の最高峰ドームの麓の町サースフェイだろうか。

北海道のヒグマ同様に、上高地にも連日ツキノワグマが出没し、注意を促す立看板があちこちにあって出没情報を伝えていた。キャンプ場の受付では食べ物は必ず食糧庫に収納するように注意された。

小梨平に広がるカラマツ林にはフリーサイトのテント場が広がり、利用料はひとり1300円だった。キャンプ場はとっても綺麗。ごみひとつ落ちておらず、トイレも綺麗に掃除してあった。八月の喧騒の最盛期が過ぎて利用者が減ったので一部の炊事場は使用不可になっていたが、炊事棟はまったくがら空き状態。薪を炊いたあとも綺麗に片づけられていた。

カラマツの下でのキャンプは快適だった。ベンチとテーブルのある場所にテントを張って、食料を収納庫に収めて、散歩に出かけた。

上高地には北アルプスへの登山の途中や日帰りで何度も訪れているが、ゆっくり散策したことがない。すがすがしい風に吹かれて歩く。

天気は快晴。河童橋や散策路からは穂高連峰の全容がきれいに見えた。こんなに綺麗に見えたのは初めてだ。そろりそろりと梓川沿いの白砂の道を歩き、尖って天を刺す明神岳を仰ぎ見ながらところどころで休憩をとりながら、明神で橋を渡り、穂高神社奥社をお参りして神社の受付前の休憩所で持参のパンとジャムを食べて昼食。

食後は梓川対岸の自然探勝路を歩き、以前に登った岳沢への分岐やウエストン卿のレリーフで記念写真を撮影し、西穂高岳への登山口をへてテントサイトに戻った。

テントサイトでははやばやとウイスキーを飲んで午後を過ごした。明るく涼しい午後のリラックスタイムはこれ以上ない贅沢なひとときだった。

スイスで眺めた険しいヨーロッパアルプスの山々に比べると日本の岩峰の代表である穂高連峰の峰々も穏やかにみえる。わずかに残る真っ白な雪渓には日本的なやさしさを感じて心が和んだ。

夕食は持参の牛肉で牛丼を作って食べた。

小梨平キャンプ場は焚火が禁止されている。日が暮れると辺りは真っ暗な静寂に包まれ、すぐ隣のテントのイスラエルから来ているキャンパーの話し声だけが聞こえた。まだ宵口というのに、はやばやと寝袋に入って寝てしまった。深夜はスリーシーズンの寝袋では寒いくらいだった。

少し寒くて夜中に目が覚めるとテントの外は十六夜の青白い月明かりが樹下に広がっていた。月が明るすぎて星は見えなかった。

二日目の朝は日の出前に起きだし、鳥の声を聞きながらコーヒーを飲んだ。気温は8℃だった。関東の蒸し暑い朝が嘘のようだ。朝食はトウモロコシとベーコン入りのパスタを作って食べた。

特に予定のない二日目、午前中はカラマツ林を梓川沿い下流に向かって散策し、田代池で小休止。もう紅葉の始まっている湿原の向こうに穂高の峰々が見えた。以前に登った奥穂の頂上が小さく見えた。

さらに下って大正池で折り返し、林の中を歩いてキャンプ場に戻った。

名残り惜しいが、テントを撤収して午前11時に帰路についた。きっと紅葉の時期にくればカラ松の美しい黄葉が舞う秋が楽しめるのだろう。また来たいと思った。

帰りのタクシーの中でおいしい蕎麦屋ないかと訪ねると、乗鞍方面に20分ほどいったところにある蕎麦処「福伝」が絶対のお勧めだという。松本で一番の蕎麦屋だと高齢の運転手がしきりにいうので、寄り道して蕎麦を食べて帰ってきた。

質素な店構えの蕎麦処の第一印象だったけれど、ちょうど今が夏に収穫する新そばの時期だそうだ。夏に新そばがあることを初めて知った。蕎麦は更科で歯応えがあり、上品でうまかった。食後、のんびり道の駅に寄り道して午後7時前に帰宅した。

スイスとはまったく気候も風土も違うけれど、あらためて日本の山の美しさと穏やさに癒された二日間だった。

もし今から百年前の日本に、スイスのような大富豪の鉄道王がいたら、きっと現在の松本電鉄新島々駅から徳本峠の下を通るトンネルを掘り、徳澤や横尾を通る登山鉄道が敷設されて、涸沢カールの急斜面を登り穂高山荘の建つ尾根駅や、天狗池展望台が作られて槍ヶ岳小屋まで通う登山鉄道が出来ていたかもしれないとひそかに想像した。きっとまったく違う日本の山の景色になっていただろう。今ある姿が保存できたのは幸運だったに違いない。

スイスに山を見に行く

今日で8月が終わる。例年のこととなった酷暑に音をあげてしまい、今年のお盆休みはスイスに山を見に行った。

K社のツアーに申し込み、10泊(実質8泊)の旅行日程は以下のごとく。

8月8日成田発、スイスインターナショナルエアライン搭乗。

8月9日ロシア上空を避け北極圏を経て、チューリッヒ、18:10着(時差マイナス7時間)。14時間のエコノミーの旅はつらかった。バスでサンモリッツへ移動(AM1:00着)。

朝8:48発、ベルニナ列車乗車、ティラーノ(11:00着)からロープウェイでディアボレッツァ展望台に登りベルニナアルプスを眺望。バスでサンモリッツに戻り泊。

8月10日、サンモリッツ発、氷河特急でアンデルマットへ。ここからバスでサースフェーへ移動し市内のパノラマ橋からミシャベルアルプスと大氷河観光。その後、バスと列車でツェルマットに移動、ツェルマット泊。

8月11日、ホテル近くの通称日本人橋から朝焼けのマッターホルン見物。ゴルナーグラード鉄道に乗ってゴルナーグラート展望台に移動。ローテンボーゲンから徒歩でトレッキング(自由行動)、ツェルマット連泊。

8月12日ツェルマットから列車(テーシュまで)とバスでフランス国境を越えシャモニー・モンブランへ移動。ロープウェイでエギーユ・デュ・ミディ展望台。モンブランと氷河眺望、バスでベルンへ移動。ベルン泊。

8月13日、ベルンからバス(ブリエンツまで)と絶景列車に乗ってロートホルンへ移動。マッターホルンユングフラウ三山展望の後ブリエンツに下りブリエンツ湖遊覧船に乗りインターラーケンへ。列車でヴェンゲンへ移動。ヴェンゲン泊。

8月14日、ロープウェイでメンリッヒエンへ。クライネシャイデックからユングフラウ鉄道ユングフラウヨッホ駅スフィンクス展望台からユングフラウ、アイガー、メンヒ、アレッチ氷河を見学。ヴェンゲン連泊。

8月15日、ヴェンゲン発。列車とバスでルツェルンへ移動、市街散策。バスでアルプナッハシュタットへ移動。ピラトゥス登山鉄道でピラトゥス山頂展望台に登り、山頂ホテルに宿泊。

8月16日、ピラトゥス発。バスでチューリッヒに移動。チューリッヒ空港発(13:00)。往きと同じスイスエアライン、ロシア上空わ避け、南側航路でカスピ海の南側を飛び、14時間の空路で日本へ。

8月17日成田着、日本時間午前8:45帰国。

<この稿、未完>

 

旭山動物園観覧記

大雪山旭岳登山の翌日に旭山動物園に行ってみた。有名な施設だけれどこれまで機会がなくて初めての観覧だった。

第一印象はずいぶんと敷地が狭いことだった。全国の動物園の運営に大きな影響を与えてきた動物園としてはずいぶんと敷地が狭い。住まい近くの横浜にはズーラシア金沢動物園があるが、この二か所に比べるとずっと狭い。もう一つある横浜の都会の真っ只中にある小規模で無料の野毛山動物園よりも狭くこじんまりしている印象だった。

展示は面白かった。有名なだけのことがあった。

虎もライオンもカバもペンギンも生き生きしていた。カバの母子は水槽の中を自由に泳ぎ回り、白熊は餌を追いかけて水飛沫をあげて池に飛び込み、チンパンジーは大声をあげて喧嘩をしていた。

その中で圧巻は北海道に生息する鳥達だった。

木を突くアカゲラ、大きなシロフクロウシマフクロウオジロワシオオワシの姿が立派だった。

狭いけれど見応えのある動物園だった。一度ならず二度三度来ても楽しめる動物園であることを実感した。

パンフレットの表紙には旭山動物園を象徴するコンセプトが書いてある。

「伝えるのは、命」

追記

旭山動物園アカゲラの一羽は新ひだか町静内のあかげら動物病院で保護したものだそうです。